\ 現代社会の発展
4 経済成長と社会変化
概要
 光復以後わが民族は国土の分断と6・25戦争、そして社会的な混乱によって多くの試練を経験した。とりわけ経済的には貧困の悪循環、慢性的なインフレーションと高い失業率などで困難な状況におかれていた。

 しかし1960年代から政府を経済開発5ヵ年計画を段階的に推進し、持続的な経済成長をなしとげた。その結果、1970年代からわが国は経済的貧困から抜け出すことができ、ついに中進国の隊列を越え、先進国の入り口に達することができた。

 高い経済成長とともにわが社会も深刻な変化過程を経験する。産業化によって農業中心社会が都市中心社会へと変貌し、このような過程で価値観の混乱を招くこともあった。また、環境問題、そして階層間、労使間の対立など社会問題が起きている。

◇研究課題◇
1 光復当時わが国の経済事情はどうだったか。
2 政府の経済開発はどのように推進され、それが成功を収めた理由は何か。
3 都市化と産業化によって、わが社会はどのような社会問題に直面するようになったのか。
4 経済発展とともに民主主義社会の正しい倫理観を確立できる方案は何か。


1 経済発展のための努力
光復直後の経済
 日帝下のわが国の経済は、日本経済に隷属し、資本と技術が日本人によって独占されていたために、正常に発展することができなかった。そして光復直後には国土の分断によって経済的混乱が継続するほかなかった。すなわち、農業と軽工業が中心の南韓の経済は、地下資源と重工業施設が北韓に偏在していた状況で、北から電気の供給までも中断されたために大きな困難を経験させられた。それだけでなく、北韓の共産主義体制から逃れるために多くの同胞が南下したことによって、南韓では失業率の増大と食糧不足で経済的混乱が深刻になった。

 このように経済的困難に直面した大韓民国政府は、経済政策の基本方向を農・工の均衡発展、小作制の撤廃、企業活動の自由、社会保障制度の実施、インフレーションの克服などに設定し、これを実践するために努力した。政府は農地改革法を制定し、アメリカと経済援助協定を締結し経済的安定を追求した。


6・25戦争と経済復旧
 6・25戦争によって南韓が受けた経済的被害は、生産施設の42%が破壊されるなど途方もないものであった。とくに甚大な被害をこうむったのは京仁地方に密集していた繊維工業と印刷工業分野であった。また、戦争費用の調達のための莫大な財政支出によってインフレーションが加速化し、物価の暴騰と物資の不足で国民生活の困難がはなはだしかった。

 休戦後には経済復旧事業が本格化した。政府と国民の努力、そして外国の援助などによって戦後復旧事業は急速に進み、生産活動も活発に再開されていった。これに1950年代後半期から、製粉・製糖工業と繊維工業が成長し、セメントと肥料などの生産も増えた。

 しかし、消費財産業が急速に成長したのに比べ、機械工業などの生産財産業は発展できなかった。これによって、韓国継済は生産材から原料に至るまで輸入に依存せぎるを得ない脆弱性をかかえるようになった。それだけでなく農業分野の復旧が十分でなく、問題点が浮き彫りになった。


経済開発5カ年計画の推進
 政府の経済開発がはじめて樹立されたのは、李承晩政府が作成した7カ年計画案であった。これが張勉内閣によって5カ年計画案に修正され、5・16軍軍政変後再修正され、1962年から本格的に実践に移されることになった、。政府の主導で推進された経済開発計画はその推進過程で多くの困難があった。当時わが国は資本、原料、技術などを十分に整えられなかった。しかしこのような困難な状況でも、持続的な経済開発計画を成功裏に推進することによって、わが国の経済は画期的な発展を達成することができた。とくに、輸出主導型の成長戦略によって、輸出と国民所得面で注目すべき成長ぶりを示し、わが国は先進国への仲間入りができるようになった。

 1960年代に推進された1、2次経済開発5力年計画では、基幹産業の育成と軽工業の伸長に力を注いだ。1970年代に推進された3、4次経済開発5カ年計画では、重化学工業の育成と農漁村開発のためのセマウル運動の推進に重点をおいた。これによって、鉱・工業の比重が高くなり、工業構造も軽工業中心から重化学工業中心に移行した。

[資料:輸出額の増加]

 また、政府は経済発展とともに国土開発を進める一方、食糧の増産にも力を注いだ。同時に産業発達を後押しするために、社会間接資本の拡充として京釜高速国道をはじめ各地に高速道路網を拡充し、全国を一日生活圏にした。

 そして、農村と都市の生活水準を平均化するために努力し、農村の文化水準と所得も次第に向上していった。


今日の韓国の経済
 経済開発5カ年計画の持続的な推進によって、わが国は高度成長をなしとげ、世界から注目を浴びる新興工業国に浮上し、国民の生活水準も注目するほどに向上した。

 その間、わが国の経済規模は途方もなく拡大し、もはや国民総生産と貿易規模で世界の10位圏に入るに至った。一人当たり国民総生産は1962年の87ドルから1995年には1万ドルを突破し、輸出も5500万ドルから1200億ドルを超えるようになった。産業構造も先進国型へ転換し、農林・漁業の比重が大きく低落し製造業とサービス業の比重が大きく増えた。

 今日、わが国の企業は積極的に海外進出を進めている。アメリカとヨーロッパ、メキシコなどにも電子産業と自動車産業が進出しており、建設会社は東南アジアをはじめとして中東、アフリカでも活躍している。その結果わが国は世界の経済成長に参加する主要な経済国家としての位置を占めるようになり、アジア・太平洋経済協力体(APEC)にも積極的に参加し、アメリカ、日本などとともにこの地域の経済協力を達成するために主導的な役割を果たしている。

 また、わが国は経済協力開発機構(0ECD)に加盟し(1996年)、商品と金融などあらゆる分野で外国に門戸をより広く開放した。しかしわが国は1997年末、国際経済条件の悪化と外貨不足によって経済的危機に直面した。こうして今日、わが国は通貨危機の克服と経済の活性化のため、経済構造の調整、労使協力、失業者の救済、輸出の増大などに尽力している。


2 社会の変化
産業化と都市化
 1960年代から本格的に経済が成長すると、わが社会は貧困を克服し経済的に豊かになったが、産業化と都市化による様々な困難も経験することになった。産業別人口構成比率を見ると、1960年代はじめまでは全体の労働人口の60%以上が農業に従事していた。しかし、今は15%にも満たない比率が農業に従事するだけで、その代わりにサービス産業、鋼・工業分野の従事者の比率がかなり高くなっている。

 このような現象によって、自然に農村中心の村落共同体的生活環境は崩れるほかはなく、急激な都市化が促進された。急速な都市化は都市の住宅問題、交通問題、環境間題などに至るまで、いろいろな社会間題を引き起こした。それだけでなく都市化がもたらした匿名性は、人と人との関係を利益中心的なものに変えてしまった。その結果、伝統的価値は断ち切られるほかはなかった。

 産業化と都市化に対するこのような問題を解決するために、政府はまず農村のセマウル運動を都市にも定着させるために努力した。すなわち、都市の隣人同士も共通の問題をともに相談し助け合う社会気風を起こすことに力を注いだ。また、工場セマウル運動で作業場内での望ましい人間関係を作りあげ、生産性を上げようとする動きもあった。

 政府は急激な都市化にともなう交通問題を解決するために、ソウルなど大都市に地下鉄を建設した。そして、都市の住宅問題を解決するために大規模アパート団地を開発し、長期賃貸アパートも建設した。


労働運動
 社会の急速な産業化によって労働者の数も急激に増加した。しかし、産業化の過程で一時低賃金が続いたが、これを土台に経済成長だけに重点をおいてきた面もあった。そのために労働者はより良い待遇を要求するようになった。このような要求は低賃金問題の解決と労働環境の改善問題などとして現れた。

 労働者の要求が具体的で本格的に現れはじめたのは1970年代からで、1980年代末になるとそれはさらに深刻な社会問題として浮上した。当時の企業家は海外市場での競争力を維持し、生産性を高めるという名目で勤労者に対して低賃金を強要し、そのような事情は相当期間つづいた。ために、勤労者と企業家の関係が悪化せざるをえなかった。

 労働条件改善に対する労働者の集団的な要求に対して、政府は経済成長と輸出増大を達成するという意図ではじめはこれを統制した。1980年代中半期以前まで、労働者の団体交渉権と団体行動権を大きく制限したのである。

 しかし1987年以後、わが国の社会では政治的な民主化とともに労働運動も活性化した。賃金の引き上げ、労働条件の改善、企業家による経営合理化と労働者に対する人格的待遇などを強く主張する労働者のデモが頻繁に起きた。

[写真:労使協議]

 このような状況に直面して政府は低賃金問題など全般的な労働問題を解決するために労働関係法を改定し、企業家と労働者との人間的な関係と新しい職業倫理の定着のために多くの努力を傾けた。その結果以前とは違う労働文化が定着し、労働環境改善も達成され、これによって生産性も高くなった。


環境保全運動
 わが社会は、1970年代半ばからの急速な産業化によって環境問題に直面するようになった。工場の廃水と産業廃棄物などによって河川が汚染され、沿・近海も汚染されるなど深刻な問題が持ち上がった。さらに、都市化にともなう自動車排気ガスと暖房による大気汚染まで誘発していった。農村での肥料と農薬の過多の使用は、土地の酸性化まで招くなど環境問題は今日、全般的に深刻な状態になっている。

 このような深刻な環境問題を解決するために、政府は多角的に対処してきた。まず、政府機構として環境部を設置し、環境汚染を防ぐための法律を制定する一方、国民運動をとおして環境問題に関する自覚を高めようと努めた。のみならず産薬界に対しても公害誘発を防ぐことのできる施設を設けさせ、公害に対する規制を強化していった。

[写真:自然保護運動]

 とくに、環境問題は国民の自然環境保護に対する関心を高め、さらに一つだけの地球をわれわれの手で保護すべきであるという意識を持たせた。その結果様々な環境運動団体が設立され、国民の環境保護運動も本格的に展開されはじめた。


社会保障政策
 産業化や都市化は疎外階層の問題を生んだ。老弱者問題、貧困層問題、そして失業者問題などこそが疎外階層の重要な問題である。

 政府は、この問題の解決のために、まず貧困家庭と老弱者などに対して最小限の生活を享受できるような生活補助金を支給し、失業者問題と老後生活保障のために雇用保険および年金制度などを導入して実施していった。

 とくに医療保険制度を導入し都市と農村、そして職場中心の医療保険体系を確立し、すべての国民が医療の恩恵を受けられる制度的な装置を設けた。この制度は病弱者や障害者に対する社会の関心を喚起させるきっかけとなり、その結果疎外階層に対する国民的な連帯意識が高まりはじめた。


正しい価値観の確立
 今日、わが社会はかつて経験したことのない価値観の混乱と葛藤を経験している。伝統的価値が社会の急速な変化によってその影響力と説得力を失いつつあり、西欧社会の価値観念が無批判的に受け入れられる風潮が生じている。とりわけ近代化がただちに西欧社会を模倣することと見なしていた人びとは西欧の間違った価値観念までも受け入れていた。そうして、今日わが社会は価値観の大混沌状況を経験している。

 伝統的にわが社会は人格と廉恥を重んじるとともに、人間関係で礼儀を尊んできた。このような伝統的な価値観は産業化や都市化によって崩れ、個人中心の利己主義とさらには集団利己主義まで現れた。その結果、一部の人びとは基本礼儀を無視し公衆道徳まで軽視する風潮が生じた。そのため今日のわが社会では正しい価値観の確立が何よりも切実に求められている。


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