\ 現代社会の発展
3 民主主義の試練と発展
概要
 6・25戦争後、李承晩政府の長期政権への画策は政治的には独裁をもたらし、社会的には不正・腐敗を蔓延させた。しかし国民の自由と民主主義に対する熱望は4・19革命につながり、その結果、李承晩政権が崩壊することになった。これをきっかけに民主党の張勉内閣が成立したが、安定をもたらす前に5・16軍事政変が起こり軍政が実施された。

 軍政につづいて成立した朴正煕政府は、経済成長と国力伸長のために積極的に努力した。したがって、経済は急速に成長することができ、産業化と都市化が進められ社会の様相も大きく変わった。

 しかし維新体制の成立によって朴正煕政府は民主憲政体制から離脱し、これに対する国民の抵抗と民主化の要求が強く現れた。維新体制からはじまった権威主義的な統治体制は結局6月民主抗争によって壊れていった。

◇研究課題◇
1 4・19革命はわが憲政史においてどのような意義をもつか。
2 維新体制が国民的抵抗にぶつかった理由は何か。
3 6・25戦争以後北韓はどのような姿に変わったのか。
4 わが民族の統一はどのような土台の上で成立すべきであるか。


1 4・19革命と民主主義の成長
李承晩政府
 李承晩政府は共産軍の南侵を経験したために、国家安保を最も重要視した。したがって、自由民主主義の体制を守るために反共を強調し、アメリカなどの友邦国との外交に力を注いだ。戦争中、李承晩大統領は反共捕虜を釈放し、後方では共産軍の浸透を防ぐために戒厳令を実施した。

 政府のこのような措置は、政治的には国民の自由を制約し、国会の正常な政治活動までも制限した。李承晩大統領は自由党を創党し、再選のために憲法を大統領直選制に変える、いわゆる抜萃改憲案を強圧的な方法で国会を通過させた。こうして国民の直選で再選された李承晩大統領は長期政権のために、再び憲法を改正したが、これがいわゆる四捨五入改憲である。この憲法の改正に反対していた政治家は民主党を組織し李承晩政府を批判、牽制した。その後、李承晩の自由党政権は長期政権を追求し、独裁政治を強化し、このような状況のなかで不正と腐敗が深刻になっていた。


4・19革命
 1960年正・副大統領選挙で李承晩を大統領に、李起鵬を副大統領に当選させるために、李承晩がひきいる自由党は大々的に不正選挙を行なった、これに激怒した学生と市民が不正選挙を糾弾し、独裁政権を打ち倒すために4・19革命を起こした。

 4・19革命は、3・15選挙当日に不正選挙を糾弾する学生と市民の馬山義挙から始まった。このとき、警察がデモの群衆に発砲することによって多くの死傷者を出したが、自由党政権はむしろこのデモの背後に共産主義勢力が介入していると発表し市民の反感を買った。その後、この事件の真相が明らかになると、国民の憤怒はいっそう高まった。

 ついに4月19日には、ソウルをはじめ大都市において学生の大規模なデモが起き、これに一般市民も合流した。李承晩政府はデモ群衆を解散させるために戒厳令を宣布するが、デモは連日つづいた。ついに李承晩は大統領を辞任し、自由党政権も崩壊した。

[写真:4・19革命(1960)]

 4・19革命は学生と市民が中心になって、独裁政権を倒した民主革命としてわが民族の民主力量を全世界に見せた。これを契機に、わが国の民主主義は新しく発展していくことになった。


張勉内閣
 4・19革命後、混乱状態を収拾するために許政を内閣首班とする過渡政府が構成された。過渡政府は内閣責任制と両院制を骨子とする憲法を改正し総選挙を実施した。その結果民主党が圧勝し、新たに構成された国会で尹溍善を大統領に、張勉を国務総理に選出した。

 張勉内閣は、社会秩序を安定させ国家の安保体制を確立するとともに、経済、社会の発展をとおして国力を伸長し民族の悲願である平和統一を早めなければならないという課題をかかえていた。

 しかし民主党は党内の深刻な政治的な葛藤によってその課題を遂行するには限界があった。こうして新政府に対する国民の期待も徐々に下がっていった。

 それだけでなく社会的には自由だけを主張し、自制することを知らない一部の国民の過度な欲求噴出でデモが継続し、社会の無秩序と混乱が続いた。このために張勉内閣は政治力を発揮することが難しかった。


2 5・16軍事政変と民主主義の試練
5・16軍事政変と朴正煕政府
 1961年5月16日、朴正煕を中心とした一部の軍部勢力が社会的な無秩序と混乱を口実に軍事政変を起こして政権を握った。4・19革命後船出した張勉内閣は自由民主主義の実現のために努力したが、5・16軍事政変によって9ヵ月の短命で終わってしまった。

 軍事政変を起こした軍部はただちに憲政を中断させ、軍部勢力が中心になって国家再建最高会議を構成し軍政を実施した。軍事政府は革命公約として反共を国是として明らかにし、経済再建と社会安定を掲げ、政治活動浄化法を制定して旧政治家の政治活動を全面的に禁止した。

 つづいて、軍事政府は新しい政党として民主共和党を創党し、これを支持する政治勢力をここに結集させた。

 軍事政府は憲法をはじめとする各種法令を改正、整備し、民政に復帰させると約束した。1963年に大統領選挙を実施し、大統領に当選した朴正煕は軍事政府によって推進された重要課題を大部分そのまま実践しようとした。

 朴正煕政府は強力な大統領中心制と単院制の権力構造を基本とする憲法にもとついて国政を運営した祖国近代化の実現を国政の重要目標とし、急速な経済成長を最優先の政策として推進した。

 朴正煕政府の経済成長政策は工業化の急速な推進という形で現れた。その過程で外国から工業化に必要な資本を導入した。

 また日本との国交正常化のために韓日会談を推進したが、これは市民と大学生の対日屈辱外交反対にあい、いわゆる6・3示威を誘発した(1964年)。これに対して朴正煕政府は戒厳令を宣布しデモに参加した市民と大学生を抑圧した。野党と大学生は朴正煕政府の抑圧統治に反対し、与野党の対立はますます深まっていった。とくに1969年には朴正煕の長期執権のための3選改憲が強行されると、与野党国会議員の問には激しい対立と葛藤の様相が現れた。

[写真:6・3示威(1964)]


維新体制の登場
 1970年代に入ってから国際情勢は急変しはじめた。アメリカはいわゆるニクソンドクトリンを宣言し、ベトナムからアメリカ軍を撤収させ、その後べトナムは共産化されてしまった。またアメリカは駐韓米軍兵力の縮小を決定した。

 このような時代的状況によって、朴正煕政府は国家安保と社会秩序を最優先の課題として掲げながら、持統的な経済成長の達成のためには、強力で安定した政府が必要であるという主張を掲げ、長期政権の道をたくらんだ。これが朴正煕大統領によって宣布された、いわゆる10月維新である(1972年)。

 維新体制は議会主義と三権分離の憲政体制とは異なり、独力な統治権を大統領に付与する権威主義統治体制であった。この体制は国家行政の能率を最優先し国力を集約して社会を組織化するという名分で、個人の自由と民主主義政治活動を制約する独裁体制であった。とくに、大統領の個人的な意志によって統制できる統一主体国民会議を設置し、そこで大統領を選出した。その結果朴正煕大統領の長期執権が可能になった。

 維新体制は国家行政の効率性を強調したが、その権威主義的硬直性は国民の政治意識とはかけ離れていたので、それ以上持ちこたえられなかった。したがって維新体制は社会の全領域にわたって逆機能的現象を引き起こし、その結果国内外から強い抵抗を受けてしまった。国内では学園、言論、宗教、政界などの各分野から、民主憲政の回復と改憲を要求するデモが起こった。このようなデモを封じ込めるために朴正煕大統領は緊急措置のような強圧的な方法を動員し、デモにかかわった人びとを拘束した。国際的にはアメリカと日本などの友邦国家でも維新体制の人権弾圧を批判し、そのため一時外交関係に否定的な影響を及ぼした。

 このような状況のなかで、釜山、馬山などでは維新体制に反対する大学生と市民のデモが連日続き、一方、執権勢力の内部でも葛藤が生じた。その結果朴正煕大統領が暗殺される10・26事態が起こり、維新体制は幕を下ろすこととなった(1979年)。


全斗換政府
 10・26事態で政治社会は一時期混乱状態に陥った。それは長期間の権威主義的統治がもたらした後遺症でもあった。そのために戒厳令が布告され、統一主体国民会議では崔圭夏を大統領に選出した。続いて1979年12月12日、いわゆる新軍部勢力が一部兵力を動員して軍権を掌握し、政治的実権も掌握した。

 この時期を前後して、民主化を要求する市民と大学生の激しいデモが起きた。民主化を熱望する国民の要求は5・18光州民主化運動に引きつがれた(1980年)。このとき、民主主義憲政体制の回復を要求する市民と鎮圧軍の間で衝突が起き、そこ過程で多数の罪のない市民も犠牲になり、国内外に大きな衝撃を与えた。

 新軍部勢力は国家保衛非常対策委員会を構成して国家の統治権を掌握し、改憲を推進して7年単任の大統領を間接選挙で選出する憲法を公布した。つづいて民主正義党を結成し全斗煥を大統領に選出した(1981年)。

 全斗煥政府は正義社会の具現、福祉社会の建設などを統治理念として掲げ、経済安定と輸出増大に努めた。しかし当時政府は民主化運動に対する弾圧と人権問題、様々な不正と非理で国民の非難を免れることはできなかった。そして全斗煥政府の権威主義的な統治と強圧的な統制に反対する国民的抵抗が全国的にくり広げられ、ついに1987年の6月民主抗争に発展するに至った。

[写真:6月民主抗争(1987)]


3 民主主義の発展
盧泰愚政府
 6月民主抗争によって、国民の民主化の要求が受け入れられ、大統領直選制への改憲を重要内容とする6・29民主化宣言が発表された。この宣言をきっかけに国会では5年単任の大統領直選制などを骨子とする憲法を作った。この憲法によって大統領選挙が実施された結果、盧泰愚政府が成立した(1988年)。

 盧泰愚政席は国政の指標を民族自存、民主和合、均衛発展、統一繁栄に設定し、地方自治制を部分的に実施した。またこの時期に第24回ソウルオリンピック大会が成功裡に開催され、国威が宣揚された。そして政府は東欧圏の共産主義国家とソ連、中国とも外交関係を樹立するなど、いわゆる北方政策を推進し、国連にも南北韓が同時に加盟するなど積極外交を展開した。しかしわが社会は長く続いた権威主義体制の後遺症と、民主化への移行過程で現われた社会混乱などによって、多くの困難を強いられた。


金泳三政府
 6月民主抗争以後、社会各分野の民主化に対する要求は、これを制度的に定着させるための努力を必要とした。これと同時に、経済成長を持続しながら国民の暮らしの質を高めようとする期待も高まった。また統一問題に対する国民の関心も増大した。このような課題をかかえて、第14代大統領選挙が実施され、その結果金泳三政府が誕生することになった(1993年)。

 金泳三政府はきれいな政府、強い経済、健全な社会、統一された祖国建設を国政の指標に設定し、公職者の財産登録、金融実名制などを法制化し、地方自治制を全面的に実施した。また社会の累積された矛盾を解決しながら民主化と世界化のための改革を推進した。しかし、その後国際経済条件の悪化と外貨不足によって経済危機に直面した。


金大中政府の船出
 このような通貨危機の中で、第15代大統領選挙が実施され、その結果、野党候補の勝利で金大中政府が成立した(1998年)。金大中政府は誕生とともに、民主主義と市場維済の平行発展を明言した。

 そのため、国政全般の改革、経済難局の克服、国民和合の実現、法と秋序の護持などの国家的課題を提示し、21世紀に向けて国家の発展のため努力している。

[写真:第15代大統領就任式]


4 統一のための努力
積極外交の推進
 わが国は統一を民族の重要な課題とし、これを達成するために常に努力してきた。1960年代までは反共を強調したが、これは北韓の武力挑発を防ぐためであった。しかし1970年代に入って経済が成長すると、自主国防にも力を注ぎ、伸長した国力をもとに積極外交を推進した。

 政府は日本との国交を正常化することによって(1965年)、韓国、アメリカ、日本の3国関係に新しい協力体制を築き、共産主義の侵略を受けていたべトナムを支援するために韓国軍を派兵した(1965年)。そして1970年代からは非同盟国家との交渉をとおして国際社会で共存と繁栄を追求しようとする実利外交を展開した。

 1980年代に入ると、政府はいっそう強化された国力をもとにソウルでアジア大会と第24回ソウル・オリンピック大会を成功裡に開催し、これを契機に北方政策を推進しようとした。その結果、ハンガリー、ポーランドなど東ヨーロッパの共産圏国家とも修交することになり、1990年代に人ってからはソ連、中国とも国交を結ぶことになった。そして南北韓の国連同時加盟を推進してこれを達成した。

[写真:中国との修交(1992)]


北韓の変化
 北韓の共産主義者は6・25戦争を経験するなかで金日成独裁体制を強化していった。その過程で彼に従わない反対派を粛清した。すなわち金日成は戦争の敗北に対する責任を南労党をはじめとする国内派共産主義者に転嫁し彼らを除去し、つづいて延安派共産主義者までも粛清した。1960年代になると北韓では金日成の独裁体制をいっそう強化して唯一支配体制を構築した。

 1972年に金日成は新憲法を採択して国家首席という地位を設け自らその地位につき、強力な国家権力機関である中央人民委員会の委員長になった。そしてすべての重要権力機関を金日成一家とその一派が支配する北韓特有の専制的共産主義社会を構築した。とくに北韓の金日成は、ほかの共産主義国家ではその例を見ない父子世襲の権力継承をもくろみ、息子の金正日が金日成の地位を継承するに至った。


統一政策の推進
 1970年代に入ると、わが政府は国力伸長をもとに自主国防を追求すると同時に、韓半島での平和を定着させるために、対北交渉を追求するようになった。同じ民族での戦争を経験し、敵対関係におかれている現実を克服するために、政府は積極的に韓半島の平和定着を模索した。

 1970年に朴正煕大統領は8・15宣言を発表した。これは北韓に対して平和的に善意の体制競争を提議することによって、韓半島で平和定着を達成するためのものであった。

 ついで1971年には大韓赤十字社が北韓に対して南北韓の離散家族探しのための南北赤十字会談を提議した。北韓がこの提議を受け入れ、南北韓の赤十字会談が開かれ、はじめて平和協議の道が開かれるようになった。

 1972年には南北韓当局者の間で7・4南北共同声明が発表された。この声明は民族統一の原則を明らかにしたもので、自主統一、平和統一、民族的大団結の3大原則をその内容とした。この原則にもとづいて南北韓当局は統一問題を協議するための南北調節委員会の設置に合意した。

 ついでわが政府は1973年に南北対話が進行しているなかで、南北韓の国連同時加盟と、互恵平等の原則のもとにすべての国家に対する門戸開放を重要内容とする6・23平和統一宣言を発表した。そして1974年には平和統一の3大基本原則に立脚して、北韓に対し相互不可侵協定の締結を提案した。

 1980年代に入り、政府は南北韓当局者間で統一論議の再開を推進し、南北赤十字会談のほかにも南北総理会談、南北韓当局の最高責任者会談、南北国会会談、南北体育会談、南北経済会談などを提議し、このような努力が部分的に実効をあげた。さらに南北離散家族故郷訪問団および芸術公演団の交換訪問が実現することになった。

[写真:南北離散家族の再会]

 さらに政府はソウル・オリンピックを契機として、北方政策の推進とともに統一政策にも前向きな姿勢を強めた。そして1989年にわが政府は自主、平和、民主の原則のもとで、「韓民族共同体統一方案」を提案するに至った。

 1990年から南北高位級会談がはじまり、1991年末には南北基本合意書を採択するなど南北対話に重要な契機が作られた。これは南北韓が相互和解と不可侵を宣言し交流と協力をして、核兵器を開発しないことであった。

 1993年に政府は和解・協力、南北連合、統一国家という3段階の統一方案と、これを効率的に実践するために民主的国民合意、共存共栄、民族福利という3大基調を柱とする統一政策を作りあげた。

 つづいて1994年8月15日、政府は民族の悲願である統一を速やかになしとげるために、韓民族共同体建設のための3段階統一方案として自主・平和・民主の3原則と、和解・協力、南北連合、統一国家完成の3段階統一方案を発表した。これは韓民族共同体統一方案(1989年)と3段階3基調統一政策(1993年)を収斂し総合したもので、民族共同体統一方案または共同体統一方案ともいう。


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