\ 現代社会の発展
2 大韓民国の樹立
概要
 1945年、民族の粘り強い独立運動と連合軍の勝利で光復を迎えたわが民族は新たな国家建設に邁進した。しかし、アメリカ軍とソ連軍の韓半島進駐と38度線分断で、南韓においては民族の正当性を受け継いだ大韓民国が樹立され、北韓においては共産政権が作られた。

 1948年にわが国民の総意による選挙で樹立された大韓民国は、歴史的には大韓民国臨時政府の法統を継承し、政治的には自由民主主義を、経済的には資本主義を基本とした。しかし、国土分断と6・25戦争でわが国ははなはだしい困難を強いられるようになった。

◇研究課題◇
1 大韓民国の民族史的正統性はどこに根拠があるのか。
2 統一民族国家の樹立が失敗した原因は何か。
3 6・25戦争はなぜ起きたのか、またわが民族史にいかなる影響を及ぼしたか。


1 大韓民国の樹立
国連韓国臨時委員団の活動
 米ソ共同委員会が失敗に終わると、アメリカとソ連は各々南北韓で別の政府を立てることに関心を抱いた。すでに、ソ連は北韓において共産主義者による事実上の政府を立て統治体制を確立し、これを南韓に拡大させようと努力した。そのため、光復後、共産党を中心とする共産主義の活動は次第に武力闘争の様相を見せた。その過程で李承晩らの政治指導者は早急に独立国家を樹立して、全国民の熱望を達成すべきであると主張した。

 米ソ共同委員会の決裂で、アメリカとソ連が韓半島で統一政府を樹立する問題について意見が分かれると、アメリカは韓半島問題を国連に移管することを決定した。

 これによって、アメリカは韓半島問題を国連に上程し、国連は韓半島に合法的で正統性のある政府の樹立が必要であると決定した。そして、そのために、国連韓国臨時委員団を構成し、早い時期に選挙をとおして、統一された独立政府を韓半島に樹立させようとした。

 ソ連は南韓までも共産化しようとしていたためこの提案に反対し、国連韓国臨時委員団が北韓に人ることさえ拒絶した。これに対して国連はとり合えず選挙が可能な地域でだけでも総選挙を実施し、政府を樹立することを決定した。


大韓民国政府の樹立
 南北間で総選挙を実施し統一された政府を樹立するとの国連の決議は、ソ連と共産主義者が反対したために南韓だけで選挙を実施するほかはなかった。

 そのとき、金九、金奎植らは、南韓だけの選挙で単独政府が樹立されると、南北の分断が継続されることを懸念し、南北韓が話し合いによって統一政府を樹立すべきであると主張した。このために金九らは南北の話し合いを推進したが結局失敗した。彼らの努力は米ソの冷戦体制下では実現しにくいものであった。

 国連の決議と大多数の国民の熱望により、ついに南韓では5・10総選挙が実施された(1948年)。この選挙により構成された憲法制定国会は大韓民国臨時政府の法統を継承した民主共和国体制の憲法を制定した。

 憲法制定国会は李承晩を大統領に、李始栄を副大統領に選出した。つづいて李承晩大統領は政府を構成し大韓民国の樹立を内外に宣布した(1948年8月15日)。

 そしてこうした事実は国連総会でも承認された。

 こうして、大韓民固は韓半島における唯一の合法政府としての正統性を持つようになった。

[写真:5・10総選挙]
[写真:憲法制定国会開院式]


建国初期の国内情勢
 南韓だけの総選挙で大韓民国を樹立したことは当時の国内外の情勢から見て不可避なことであった。ソ連の膨張政策と北韓で事実上の共産主義政府が樹立されたことを考慮すると、南韓で自由な民主政府を樹立することは切実な要求であった。この際、統一政府の樹立を追求した南北協商派は総選挙に参加せず、共産主義者は南韓の共産化のため彼らまでも利用しようとした。

 共産主義者は5・10総選挙に前後して単独政府樹立に反対する名目で南韓各地で流血事件を起こした。このような状況のなかで発生した済州島4・3事件は、共産主義者が南韓の5・10総選挙を撹乱するために起こした武装暴動で、鎮圧の過程で罪もない住民までも犠牲となり、済州島の一部地域では総選挙も実施されなかった。

 一方、新たに創設された国軍内部にも共産主義者が浸透し、社会混乱を引き起こした。とくに麗水・順天10・19事件は、この地域に駐屯していた軍部隊内の一部の左翼勢力が反乱を起こし、同地域に潜入していた共産主義者が加わって起こした事件であった。

[資料:反共義挙と共産暴動]

 この事件は新たに樹立した大韓民国を転覆しようとする意図があった。結局、国軍と警察の討伐によりこの事件は鎮圧されたが、平穏と秋序を取り戻すまでには相当な期間が必要であった。

 このような困難を乗り越えて新たに出発した大韓民国は、民主国家としての発展をなしとげるため基盤を強化することに全力を注いだ。まず、民族正気を正すために、憲法制定国会では親日派を処罰するための反民族行為処罰法を制定した。その主要な内容は、日帝時代に親日行為をした人物を処罰し、公民権を制限するなどであった。この法を執行するために国会議員10人で構成する反民族行為特別調査委員会を設置し、親日疑惑を受けた主要人物を調査した。しかし、反共政策を優先した李承晩政府の消極的な態度によって親日派処断に所期の成果を上げることができなかった。

 政府はまた、農民に土地を配分するために、農地改革法を制定した(1949年)。この法は翌年に一部修正の上実施されたが、その原則は、3町歩を上限とし、それ以上の農地は有償購入、有償分配することであった。これによって、それまで小作農として苦しんでいた多くの農民が自分の農地を持つことができるようになった。


2 6・25戦争
北韓政権の樹立
 8・15光復以降、北韓の住民も新たな国を建てられる感激で喜びに満ちあふれていた。とくに平壌でば晩植を中心にした平安南道建国準備委員会が結成され、中央政府が樹立されることを待ちながら自治活動をくり広げた。しかし北韓に進駐したソ連軍は、北韓をソ連式ソビエト体制にするために共産主義者が中心になった人民委員会を組織させた。

 北韓に進駐したソ連軍当局者は北韓に共産主義政権を樹立し、さらに南韓までも共産化しようとした。ソ連は北韓に共産主義政府を樹立するために、北朝鮮臨時人民委員会を構成し(1946年)、その委員長に金日成を選任した。

 しかし、それは名ばかりの臨時人民委員会で、事実は共産主義政府として北韓だけの単独政府を樹立することであった。

 このように樹立された北韓の臨時人民委員会は、共産主義の方式で社会改革を行なった。土地改革法を制定し、無償没収・無償分配を断行したが、これは実際にはすべての土地を国有化することであった。そして、男女平等法を制定し女性労働力まで産業現場に動員し、産業国有化法を通過させ共産主義体制を強化した。その結果、北韓では共産主義支配体制を確立することになった。

 北韓の共産主義者はソ連の指示によって、北朝鮮人民委員会を人民共和国に改め、政府の樹立を宣布した(1948年9月)。これと同時に、北韓共産主義者は南韓を共産化しようと南侵準備に取り組んだ。北韓はソ連の支援を受け最新の武器をそろえるなどひそかに軍事力を強化した。

 また、共産主義者は南韓での政治的不安をあおるため、宣伝活動と撹乱作戦を展開し、南韓の各地域で連続して騒擾事件を起こし、その結果、社会不安が高まっていった。

 このような事件を起こした共産主義者はわが軍警の力に押され山間に隠れるようになった後にも、継続して官公署を襲撃し、良民を虐殺しながら軍警と対峙した。しかし、大韓民国がその基盤を固め国家の基礎を定着させていくとともに本格的に彼らを鎮圧することになった。


6・25戦争と共産軍の撃退
 北韓共産主義者は、社会の撹乱では大韓民国政府の転覆が難しくなると、和戦両面作戦を駆使した。表面では平和協商を掲げながら、裏では戦争を引き起こす時期を綴密に探っていた。北韓は、統一政府をつくるため南北韓指導者の間の政治協商を主張しながらこれを大々的に宣伝した。

[写真:9・28ソウル修復(1950)]
[写真:国軍の平壊進軍を歓迎する市民たち]

 この頃、韓半島に進駐していたアメリカ軍が撤収し、韓半島をアメリカの極東防衛線から除外するという発表もあった。北韓の共産主義者は、このような情勢を利用し戦争を準備した。金日成はひそかにソ連を訪れ、南侵のためにソ連と中国の支援を約束させ、ついに1950年6月25日の未明、38度線全域にわたって武力で南侵を敢行した。不意に奇襲を受けた大韓民国国軍は自由守護の決意を固めながら勇敢に戦った。しかし兵力と装備が不足し、ソウルが陥落し、韓国軍は洛東江戦線まで後退した。

 北韓共産軍が武力で南侵すると、国連は直ちに安全保障理事会を開き、北韓の南侵は不法な軍車行動であり、平和を破壊する侵略行為であると規定し、大韓民国を支援することを決議した。アメリカ、イギリス、フランスなど16カ国の軍隊で構成された国連軍は、韓国軍とともに反撃を開始した。

 韓国軍と国連軍は1950年8月から反撃を開始し、仁川上陸作戦によって戦況を反転させ、9月28日にはソウルを奪還し、さらに、38度線を越え北進した。韓国軍と国連軍は平壌を陥落し、その年の冬には鴨緑江にまで進撃した。このように統一の念願が成就するかと考えられた時点で中共軍が介人することによって、韓国軍と国連軍は一時漢江以南まで後退せざるを得なかった。再びこれに韓国軍と国連軍の反撃作戦が展開され、38度線付近で戦争は膠着状態となってしまった。


休戦と戦後復復旧
 戦闘が一進一退をくり返すなか、共産軍側は国連のソ連代表を通じて休戦を提議した。共産軍側の休戦提議に対し、わが政府と国民はいったん休戦になれば民族の分断が永久化されることを懸念しこれに反対した。これによって、休戦に反対する汎国民的運動が全国的に激しく起こった。しかし、統一を念願する国民の熱望とはうらはらに国連軍と共産軍の問で休戦が成立してしまった(1953年)。

 北韓共産軍の南侵によって起きた6・25戦争は3年間韓半島全域に深刻な被害をもたらした。この戦争によって南韓の死傷者数だけでも150万人にのぼり、数多くの戦争孤児が生まれた。そして国土は焦土と化し、建物、道路、工場、発電施設など大部分の産業施設が破壊された。これと同時に南北間には、戦争による敵対感情がいっそう深まり、その結果、平和的な統一よりは対決の局面による民族の悲劇が拡大されるほかなかった。

 休戦後、大韓民国はまず、荒廃した国土の再建と産業復興に力を注いだ。全国民が再出発する決意で復旧に全力を注ぎ、アメリカなどの自由友邦も大韓民国を積極的に援助した。

 そのため産業施設が急速度に復旧し、生産活動も回復し、社会のすべての領域にわたって次第に元の姿を取り戻すようになった。その結果、経済発展の基礎が整えられた。

 また、国民の心のなかには二度と共産主義者の南侵を許さないという意志が固く根付き、韓国とアメリカとの間には韓米相互防衛条約が締結された。

[写真:韓米相互防衛条約の締結(1953)]

 6・25戦争は、わが社会のあらゆる面に大きな影響を与えた。政治的には李承晩政府の独裁化に利用されたが、経済的には生存の条件を確保するために経済発展の意志を固くさせた。社会的には激しい人口の移動により家族制度と村落共同体意識が弱まり、文化的には西欧の文化が無分別に浸透し、わが伝統文化に逆機能的な影響を及ぼした。


トップ   次項