\ 現代社会の発展
[写真:京釜高速道路]
単元の概観
 わが民族は、国内外での民族独立運動と連合軍の勝利によって1945年、光復を迎えた。しかし、韓半島に駐屯した米ソ両軍によって38度線で南北に分断され、統一民族国家を実現することができなかった。

 超大国間の東西冷戦の熾烈な競争のなかで、わが民族は分断された状態で、南においては大韓民国を、北においては共産政権を各々樹立した。その過程で自由主義勢力と共産主義勢力との間で激しい対決が起こり、共産主義者の南侵によって6・25戦争が勃発した。

 その後、わが国では李承晩政府の独裁に対抗して自由民主主義を守るための4・19革命が起きた。しかし5・16軍事政変によって民主主義の発展が試練を経験した。一方、経済面では産業化が持続的に推進され、今日では先進国の入り口に立つことになった。


1 現代社会の成立
概要
 1945年、祖国の光復活は、わが民族が独立をなしとげるために国内外で絶え間なく展開してきた独立運動とアメリカ、ソ連など連合軍の日本に対する軍事的勝利の結果であった。

 しかし、光復直後、アメリカ軍とソ連軍が韓半島に駐屯して38度線で南北を分断したため、統一民族国家の樹立は容易ではなかった。

 南線では、アメリカ軍によって軍政が実施され、北韓では、ソ連によって軍政が実施された。このような状況のなかで、モスクワ3国外相会議で韓国に対する信託統治が決議され、これに対してわが民族は信託統治反対運動を積極的に展開した。

◇研究課題◇
1 第2次世界大戦以後、東西両陣営間の対立と葛藤はいかなるものだったか。
2 南北分断と民族分裂を招いた原因は何だったか。
3 分断直後の南北韓の祉会的状況ぱどうだったか。


1 現代の世界
冷戦体制
 第2次世界大戦後、ヨーロッパ勢力は大きく弱まった。世界はアメリカを中心とする自由民主主義の陣営とソ連を中心にする共産主義の陣営に分かれた。両陣営の激しい対立から冷戦体制が形成され、それによって、国際的対立と緊張状態が長期間続いた。

 ヨーロッパでの冷戦はソ連のベルリン封鎖で激化した。アメリカと西ヨーロッパの自由主義国家は北大西洋条約機構を結成し、これに対抗してソ連と東ヨーロッパの共産主義国家はワルシャワ条約機構を創設した。一方、アジアでも、中国本土が共産化するなど、共産主義勢力が拡大されアメリカとソ連の対立が激しくなった。アメリカは東南アジア条約機構などを結成し、集団防衛体制を形成した。

[資料:第2次世界大戦以後の世界]

 しかし、東西冷戦体制はスターリンの死後、ソ連の実権を握ったフルシチョフの登場によって若干やわらげられた。フルシチョフは形式的ではあったが、平和共存を標榜し、アメリカを訪問しアメリカ大統領アイゼンハワーと首脳会談も行なった。このようななかで、キューバ危機やべトナム戦争などが起き、東西冷戦体制は依然としてつづいた。

 その後、アメリカ大統領ニクソンは共産国家に対して柔軟な対応を示すニクソンドクトリンを発表した(1969年)。つづいて、ニクソンはベトナムからアメリカ軍を撤収し、共産中国の国連加盟を承認した。さらに、ニクソンは共産中国を訪問し冷戦体制の緩和に貢献した。1980年代になると、ソ連の指導者であるゴルバチョフは開放と改革を前面に出し、共産主義体制の変革を追求した。また、東部ヨーロッパの共産体制が崩壊し、分断されていた東ドイツが西ドイツに吸収される形でドイツの統一が実現した。このように理念の対立が弱まり和解の雰囲気となって、ついに冷戦体制は崩壊した。


第三世界の台頭
 20世紀中葉、世界史の流れは、アジア、アフリカの覚醒と民主主義の発展、そしてこれによる反帝国主義と反植民主義運動であった。このような流れのなかで、第2次世界大戦以降、大多数のアジア、アフリカの植民地は独立を果たした。

 アジア、アフリカの新生独立国家はインドネシアのバンドンで会議を開催し(1955年)、非同盟中立路線の第三世界または第三勢力を形成した。バンドン会議では、反植民主義、民族主義、平和共存などの平和10原則を採択した。このように第三世界の台頭は、アジア、アフリカの民族的覚醒を誇示し自主的な立場を表明した点で大きな意義があり、国際連合内の勢力分布にも大きな変化を招き、国際政治の勢力均衛にも影響を及ぼした。

 一方、第2次世界大戦以降、ヨーロッパで現れた重要な流れはヨーロッパ統合の動きであった。これは1960年代に入ってからヨーロッパ共同体に発展した。その後、ヨーロッパ共同体はイギリス、デンマークなどの加盟でその規模が拡大し、今日ではヨーロッパ連合に発展している。


2 韓国の現代社会
光復直前の建国準備活動
 国内外において民族独立運動を推進していた団体は、第2次世界大戦で日帝の敗色が濃くなると、建国のための準備作業に入った。

 大韓民国臨時政府は民族主義系列の独立運動団体を韓国独立党に統合し、その支持基盤を強化したのち、大韓民国建国綱領を制定、公布した。この建国綱領は、普通選挙による民主共和国の樹立と政治・経済・教育の均等などを規定した。また、臨時政府は朝鮮民族革命党の指導者を受け入れ政府の体制を改編し、朝鮮民族革命党がひきいていた朝鮮義勇隊を吸収して韓国光復軍を補強し、抗日戦争をより積極的に展開した。

 一方、中国の華北地方では社会主義系列の独立運動家が朝鮮独立同盟を結成し、民主共和国の樹立を綱領として掲げ、その下に朝鮮義勇軍をひきいていた。国内でも日帝の苛酷な弾圧のなかでも一部の指導者は朝鮮建国同盟を組織し、日帝打倒と民主主義国家の建設を追求した。

 このように国内外で独立運動を推進してきた民族指導者は、日帝の敗北後に民主共和国を樹立することで目的を一つにしていた。


8・15光復
 ついに、1945年8月15日、わが民族は日帝の支配から解放され光復を迎えた。わが民族の光復はアメリカ、イギリス、中国、ソ連などの連合軍の勝利による結果でもあるが、わが民族が国内外で粘り強く展開してきた独立闘争の結実であった。

 8・15光復は、全民族が日帝の支配に対して闘ってきた結実であったので、数多くの人びとの犠牲と献身は民族運動史のなかで偉大な業績として残っている。民族の独立運動は政治、経済、社会、文化、外交などあらゆる領域にわたって持続的に展開された。独立運動の方法も武装闘争、外交活動、民族文化守護運動、そして民族実力養成運動などとして展開された。このように粘り強く展開された民族独立運動が国内外に広く知られるにつれ、国際的にもわが民族の独立国家樹立は当然達成されるはずのものと見なされていた。

[写真:光復の喜び]


国土の分断
 第2次世界大戦中にアメリカ、イギリス、中国の3国首脳はカイロで会談を開いた。この会談では適当な時期に韓国を独立させることを決議した。この決議は、その後ポツダム宣言でも再確認されたことで、わが国の独立はすでに国際社会で約束されたものであった。

 しかし、日帝が敗亡した後でもわが国は直ちに独立国家を建てることができなかった。それは韓半島に居残っていた日本軍の武装を解除するために、38度線の北側にはソ連軍が、南側にはアメリカ軍が進駐したからである。その結果、民族が熱望していた完全な自主独立国家の建設は難しくなり、米ソの軍隊が実施する軍政が民族分断をしだいに固定させる方向に進んでいった。このようにわが民族は自主独立国家をなしとげる能力を持っていたにもかかわらず、強大国の利益によって国土が分断される民旅的悲劇を迎えたのである。

[写真:38度線案内標示]

 アメリカ軍が駐屯していた南韓では朝鮮総督府に代わってアメリカ軍政庁が入ってきた。アメリカ軍政庁はわが国に新しい西洋の政治体制と思想、文化を導入したので、これによって民主主義の政治秩序と制度、西洋の科学精神、個人主義的思考方式などが入ってくるようになった。

 一方、これに先立ち、呂運亨、安在鴻らを中心とする朝鮮建国準備委員会は日帝が敗亡すると、ただちに建国のための自発的な組織体を作り、独立の準備に入った。また臨時政府が帰国した後に力を合わせて独立国家を作ろうと主張する韓国民主党のような政治勢力も現れた。とくに、国外から独立運動家たちが帰国することによって、政治勢力間には建国に関する相異なる主張が出るようになった。このように、意見を異にする政治勢力間の対立と葛藤は社会の混乱を招いた。

 8・15光復以後、経済は急騰する物価と米をはじめとする生活必需品の欠乏で大混乱を引き起こした。これは国民の日常生活を困難にした。アメリカ軍政は当初、南韓の実情をよく把握していなかったため、このような問題に効果的に対処できなかった。また、この時期には共産主義者の社会撹乱によって各地で流血の衝突が起きていた。

 北韓では、ソ連軍の進駐により、自主的に独立国家を樹立しようとする民族主義人士の活動が禁止され、その代わりにソ連軍と一緒に北韓に入ってきた金日成などの共産主義者を中心とする政治活動が展開された。ソ連軍と共産主義者は事前に準備していた計画にそって共産主義政権を樹立するための基盤を固め、これに反対する゙晩植らの民族主義系列の人士を粛清した。


信託統治問題
 38度線を境界に韓半島が分断され、南と北にアメリカ軍とソ連軍による軍政が実施されるなか、アメリカ、イギリス、ソ連の3国外相はモスクワで会議を開き、韓半島間題について協議した(1945年12月)。この会議では、韓国に臨時民主政府を樹立するため、米ソ共同委員会を設置し、韓国を最大5年間、米英中ソ4カ国の信託統治下におくことを決定した。

 信託統治は、強大国が独立の能力のない国を一定期間統治することで、実際にはわが民族にとっては植民地支配と大きな差異のないものであった。つまり、モスクワ3国外相会議での韓半島信託統治決定はわが民族には侮辱そのものであった。この知らせが国内に伝わると、全国的に信託統治反対運動が激しく展開され、それは第2の光復運動のような性格をおびるものであった。当初は、共産主義者も信託統治に反対していたが、彼らはソ連にそそのかされモスクワ3国外相会議の決定を受け入れた。大多数の国民は共産主義者のこのような態度に失望した。

[写真:信託統治反対運動と信託統治反対ビラ]

 反託運動が激しく展開されているなか、アメリカとソ連はソウルで米ソ共同委員会を開いたが、初頭から難航した。ソ連は信託統治決定を支持する政治団体だけを米ソ共同委員会との協議の対象として参加させようと主張し、アメリカはすべての政治団体を参加させるべきであると主張したからであった。このようなソ連の主張は信託統治を支持する共産党だけを臨時政府樹立に参加させようとする意図であった。2回にわたる米ソ共同委員会の会議は米ソ間の相反する主張で、ついに何の合意も得られず決裂してしまった。


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