[ 民族の独立運動
5 民族文化守護運動
概要
 日帝下の民族受難期に展開された民族文化守護運動は、武力闘争や政治、外交闘争と同様に重要な民族運動の一つであった。 

 民族指導者は国学研究に努力し、民族意識を鼓吹し、民族文化の伝統を守護しようとした。日帝の意図的な民族史歪曲に対抗して正しい愛国心を鼓舞することに努力した。

 教育においても、民族指導者は民族意識の高揚と教育機会の拡大のために各方面で努力した。

 そして宗教分野では天道教と大倧教の指導者が民族精気の宣揚に努力し、キリスト教や仏教も近代意識の鼓吹のために先頭に立った。

◇研究課題◇
1 日帝の植民地文化政策の目的と方法はどうだったか。
2 日帝がおかした韓国史歪曲に対してわが民族はどう対応したか。
3 日帝下のハングル普及運動はどのように展開されたか。
4 日帝下の民族教育活動はどのように推進されたか。
5 日帝下でわが民族は文学と芸術の伝統を保存するためにどのように努力したか。


1 植民地文化政策
愚民化教育と言論政策
 日帝は政治的、社会的弾圧や経済的収奪もさることながら、文化面においてもあらゆる手段を用いてわが民族の活動を統制した。

 まず、教育分野では愚民化教育によって、いわゆる韓国人の皇国臣民化を策した。この目的にそって、わが民族は私たちの言葉に代わって日本語を学ぶように強制され、各級学校の教科書は彼らの侵略政策に合うように編纂された。彼らは私立学校や書堂などの民族主義教育機関を抑圧し、単なる初級の実業技術教育をとおして自分たちの植民地統治に有用な下級技術労働力の養成だけを策した。

 中日戦争以後はさらに残酷な植民地教育政策が実施された。すなわち、日帝が掲げる内鮮一体、日鮮同祖論、皇国臣民化のような荒唐無稽なスローガンのもとで、私たちの言葉と歴史の教育は一切禁止され、これに強く抗議した学校は閉鎖された。

[写真:植民地教育に利用された教科書]

 一方、国権侵奪とともに韓国人の言論・集会・結社の自由は剥奪され、そして日帝の植民統治に強く抗議する新聞はすべて廃刊させられたが、3・1運動以後には、いわゆる文化統治によって『朝鮮日報』、『東亜日報』の発行が認められるようになった。しかし、これらの民族紙は日帝の検閲によって記事が削除されたり停刊、廃刊にされ、言論人が拘束されるなど様々な迫害を受けた。


韓国史の歪曲と宗教弾圧
 日帝は民族の誇りと紐帯感を植え付けてくれている民族史を彼らの植民統治に有利な方法で歪曲した。とくに、民族史の根源ともいうべき古代史部門の歪曲が最もひどく、檀君朝鮮が否定され、韓国史の他律性と停滞性が強調され、民族史の自律性と独創性などは無視された。

 宗教活動も様々な弾圧を受けた。日帝のキリスト教勢力粉砕の陰謀のために、いわゆる安岳事件、105人事件が程造され、3・1運動以後には多くの教会指導者が独立運動に加担したとして逮捕、投獄された。とくに、1930年代後半以後には神社参拝が強要され、これに反対する宗教系統の学校は廃止され、キリスト教指導者は投獄された。

 仏教においても寺刹令、僧侶法などが制定され多くの弾圧を受けた。天道教と大倧教などの民族宗教は日帝の監視と干渉がとくにひどく活動の自由が大きく制限された。


2 国学運動の展開
ハングル普及運動
 愛国志士は日帝の過酷な弾庄に対抗して民族文化の守護運動を粘り強く展開した。

 3・1運動以後、李允宰、崔鉉培などは国文研究所の伝統を受け継いで朝鮮語研究会を組織して国語研究に活力を吹き込んだ。彼らはハングルの研究とともに講習会、講演会をとおしてハングル普及に努力し、『ハングル』という雑誌を刊行し、その研究成栗を整理、発表した。とくに、彼らはハングル記念日である“カギャの日"を定めハングル常用を奨励することによってハングルの大衆化に大きく寄与した。

[写真:朝鮮語学会会員]
[写真:ハングル綴字法統一案]

 朝鮮語研究会が朝鮮語学会に改編されるとともに、その研究もさらに深化した。朝鮮語学会はハングル教育に力を注ぎハングル教材を出版したり、会員が全国各地方を巡回しながらハングルを普及することの先頭に立った。朝鮮語学会がなしとげた大きな成果のなかの一つがハングル綴字法統一案と標準語の制定であった。

 一方、朝鮮語学会は『朝鮮語大辞典』の編纂を試みたが、日帝の妨害で成功できず、日帝によって独立運動団体に見なされ、会員は逮捕、投獄され、ついに強制的に解散させられた。

 このようなハングル普及運動は日帝の朝鮮語・朝鮮文の抹殺政策に正面から対抗した抗日運動であると同時に民族文化守護という側面で重要な意義を持った。


韓国史の研究
 民族文化の守護運動は韓国史研究においても活発に推進された。すなわち、日帝によってわが民族史が歪曲され否定的な面だけが強調されていることに対し、民族主義史学者は韓民族の起源を明らかにし、わが民族文化の優秀性と韓国史の主体的発展を強調する研究活動を展開した。

 まず、朴殷植は中国の上海で『韓国痛史』を著述し、近代以後における日本の韓国侵略過程を明らかにし、『韓国独立運動之血史』では日帝の侵略に対抗して闘争した韓民族の独立運動を著述した。彼は民族精神を魂としてとらえ、魂のこもる民族史の重要性を強調した。

[写真:民族主義歴史書]

 そして申采浩は主に古代史研究に重点をおいて『朝鮮上古史』『朝鮮史研究草』などを著述し、主体的な韓国史を整理することによって民族主義歴史学の基盤を確立した。そのほかに、鄭寅普は『朝鮮史研究』などの著述をとおして日帝の植民史観に対抗し、文一平、安在鴻なども民族主義歴史学を継承、発展させた。

 一方、青丘学会を中心とする日本御用学者による歪曲された韓国史研究に対抗して、李丙Z、孫晋泰などは震檀学会を組織し『震檀学報』を発刊して韓国史研究に力を注いだ。


3 教育運動と宗教活動
朝鮮教育会
 日帝侵略下で、韓国人の初等学校就学率は日本人の6分の1にすぎなかった。このような現象は上級教育機関にいくほどさらに深刻であった。

 3・1運動以後、日帝の植民統治の変化により教育施設が拡充されたとはいうものの、それは日本人のための教育施設拡充であって、韓国人のためのものではなかった。それだけではなく、正規の学校での教育は徹底した植民地教育であって、韓国人のための民族教育はほとんど存在しなかった。しかし民族教育機関として私立学校、宗教系統の学校、改良書堂、講習所、夜学などがあった。これら教育機関はたとえその規模は小さくても、民族意識の高揚に大きく貢献した。

 このような状況下で韓国人のための韓国人本位の教育を要求する声が大きくなっていった。このような民族的要求に符合して韓圭咼・李商在などの民族指導者は朝鮮教育会を組織した。

 朝鮮教育会は韓民族本位の民族教育を展開するためには、何よりも高等教育機関を設立し、人材を養成することが急務であるとし、大学の設立を急いだ。

 こうして朝鮮教育会は総督府に大学の設立を要求したが、これを黙殺されると、わが民族の手で大学を設立しようとする民立大学設立運動を展開した。そこで朝鮮青年連合会と言論機関が積極的に協力し合うことによって民立大学設立運動が本格化した。


民立大学設立運動
 民族教育新興運動の中枢的役割をしていた朝鮮教育会の努力によって、李商在を代表とする民立大学期成準備会が結成された(1922年)。この準備会では全国各地に趣意書を送るとともに参加することを訴え、各地に代表を派遣し社会有志を説得した。このような努力によって各地で積極的な呼応を得て、翌年ソウルで発起人総会を開催した。

 この集会には民立大学の設立を熱望する各地の代表が参加し大盛況となり、朝鮮民立大学期成会を組織した。この期成会は大学設立は韓国人の財力と努力だけで実現しなければならないという原則を立て、各地に地方部の組織を急いだ。

 このような原則下で1000万ウォン募金運動を展開した。全民族が参加できるよう100余カ所の地方組織が構成され、満州、アメリカ、ハワイなど海外でも募金運動が展開された。

[写真:朝鮮民立大学期成会会員]

 この運動は多くの社会団体の後援によって順調に進行したが、日帝の妨害工作で中途で挫折させられた。日帝はこれに代わって京城帝国大学を設立し韓国人の不満をなだめようとした。


未識字者解消運動
 わが民族は日帝の過酷な植民地差別教育政策によって教育の機会を失ったために未識字者が増加した。未識字者の増加は民族の力量を弱めることで、まさに日帝が目標にしていた韓国人の愚民化を意味するものだった。これに対してわが民族は、3・1運動を契機に未識字者解消が急務であることを自覚し、これを実践に移した。

 当時公立普通学校は収容能力がかなり制限されていただけでなく、学費が高く、わが労働者や農民、そして都市貧民には教育の機会が与乏られていなかった。

 そうして1920年代には各地に夜学が設立されたが、これらの夜学は民族主義の色彩が強く、教える教科目も朝鮮語中心であった。そしてどの夜学でも朝鮮語で授業を行い、朝鮮文を最も重要視することで公立学校とは対照的であった。さらにこの夜学は未就学児童だけでなく成人男女まで受け入れ民族教育機関として重要な役割を果たした。

 そのために日帝は民族主義色彩が強い夜学を弾圧し閉鎖させ、いわゆる「一面一校主義」施策を強行し公立普通学校を増設したが、これに入れた韓国児童は学齢児童の5分の1にすぎなかった。それでわが民族はハングル普及を通して未識字者解消運動を言論社を中心に展開した。先頭に立って文字普及運動を展開した新聞社は『朝鮮日報』であった。「知は力なり、学ぶ者のみ生き残る」という標語を掲げ、休暇中に帰郷する中等以上の男女学生を動員し、全国各地で未識字者解消に力を注いだ。

 一方、『東亜日報』は啓蒙運動である「ブナロード」運動を展開した
(7)。ブナロード運動は、当時2000万国民のうち80%に近い1600万人が未識字者という深刻な現実を打開するために、彼らに文字を教えながら、一方では迷信打破、旧習除去、勤倹節約など生活改善をはかろうとするものであった。

[写真:ブナロード運動ポスター]

 このように言論社の活動が活発になると、朝鮮語学会もこの運動に積極的に参加し、協力を惜しまなかった。文字普及運動に使う教材を作り、大部分私立学校の教員であった朝鮮語学会会員は率先して全国を巡回してハングル講習会を開いた。

 しかし、この運動が全国的な民族運動に拡大していくと、朝鮮総督府の弾圧が過酷になり、結局は大規模の巡回講習や未識字者解消運動も禁止する命令が出され、民族教育運動としての未識字者解消運動は幕を下ろさざるを得なくなった。


(7) ブナロード(Vnarod)という語は元来ロシア語で“民衆の中へ"という意昧である。『東亜日報』が展開した未識字者解消運動は民衆の生活改善と文化生活を啓蒙しようとする意図で、その語源をそのまま使用したものである。


科学大衆化運動
 日帝の植民地教育は、韓国人を植民統治に有用な下級技術労働力として養成することに目的をおいたために、真正な科学教育が行なわれることはなかった。さらに高等科学教育機閑としては京城帝国大学だけで、このほかには技能人の養成を目的とする専門学校ぐらいであった。したがって、韓国人のための科学教育は切実に要請された。

 3・1運動以後、世界列強が富国強兵の手段を科学技術の振興に求めたという事実を認識した民族指導者は、わが民族の甦ることのできる近道は科学の振興にあると考えた。さらに第1次世界大戦時にはじめて登場した戦車、航空機など科学技術の成果は、当時科学技術万能という考えを世界に呼び起こし、列強は先を争って科学技術の振興に努力していた。とくに、当時航空機は科学技術の象徴であった。このような時期に安昌男の故国訪問飛行は、わが民族に大きな感銘と衝撃を与えた。その飛行術は「われわれもやればできる」という自信と衿持を全民族に植え付けた。当時『東亜日報』をはじめとする民族紙と雑誌などでも科学の大衆化を主張した。

 このような状況で発明学会と科学文明普及会が創立され(1924年)、その後類似した団体が続々と登場した。これら団体は科学の重要性を国民に教えながら民立大学と研究機関の設立、外国留学の奨励のための基金積み立てを推進した。

 発明学会は科学総合雑誌である『科学朝鮮』を創刊し、科学の日を定め全国的に科学行事を行なった。そして科学知識普及会を設立して生活の科学化、科学の大衆化を主張し、科学図書の編纂と刊行、講演会、展示会などの開催に努力したそして主要都市に支部を置き組織を拡大していったが、1930年代末に日帝の強要によって日帝の作った科学団体に強制的に吸収されてしまった。


宗教活動
 早くから愛国啓蒙運動に貢献してきた改新教は、国権被奪以後、経済、社会、文化各方面にわたって民族運動をより積極的に展開することによって、日帝から厳しい弾圧を受けた。とくに、日帝末期には神社参拝を拒否する運動を行ない、その指導者の一部が逮捕、投獄されたこともあった。

 一方、天主教は開化期以来展開してきた孤児院、養老院の設立など社会事業を継続して拡大させていくとともに『京郷』などの雑誌をとおして民衆啓蒙に貢献した。そして一部天主教徒は満州で抗日運動団体である義民団を組織し、武装抗日闘争に立ち上がっていった。

 東学の後身である天道教の指導者は3・1運動を指導した後、第2の独立宣言運動を計画し、言論・出版・啓蒙などの社会運動を展開し民族文化の発達と守護に大きく寄与した。

 天道教とともに民族宗教の両大勢力を成していた大倧教は早くから本部を満州に移し、檀君崇拝思想を広く伝え民族意識を鼓吹し、民族教育とともに武装抗日闘争にも積極的に参加し抗日独立戦争の中枢的役割を果たした
(8)

 護国仏教の伝統を継いできた仏教界も3・1運動に参加し、韓龍雲らは韓国仏教を日本仏教に統合しようとする総督府の政策に果敢に対立し、民族宗教の姿勢を堅持した。

 一方、朴重彬が創始した円仏教は開墾事業と貯蓄運動を展開して民族の自立精神を育て、男女平等、虚礼虚飾の廃止など新生活運動を展開した。

自主独立宣言文
 尊敬する天道教人と民衆の皆さん!
 わが大韓は堂々たる自主独立国であり、平和を愛する世界の一等国民であることを再び宣言します。さる己未年の独立万歳運動はただちにわれわれの伝統的な独立の意志を万邦に闡明したものであり、国際情勢の順理にかなう自由、正義、真理の喊声でありました。それにもかかわらず、日本の武力的な圧迫によってわれわれの自由と平等を主張した自主独立運動は悲しいことに破れてしまいました。(中略)われわれの独立のための闘争は今からがいっそう意昧があり重要です。志を同じくする同志が再び集まって己未年の感激を再現するために再び立ち上がり、最後まで祖国の独立のために身命を棒げることを決意し宣言します。(後略)


(8) 大倧教では1911年満州において多くの民族学校を設立して愛国心を鼓吹し、抗日武装団体である重光団を結成し、3・1運動以後にはこれを拡大、改編し北路軍政署を設立して武装独立戦争を展開した。この部隊は青山里大捷の中軸をなした。


4 文芸運動
文学活動
 わが国の近代文学は、日帝の植民地支配体制のために自由な発展が抑制された。しかし、このような悪条件下でも啓蒙的な自主思想を鼓吹する文学活動は活発に展開された。

 1910年代の代表的な作家は崔南善と李光沫である。崔南善は新しい詩の形態を考え近代詩の発展に貢献し、言文一致の朝鮮語の文章を確立するのに先駆的な役割を果た。李光洙はその小説『無情』が啓蒙期の新文学を総決算するに値する作品であると評価されるほどこの時期の代表的な作家であった。

 そして韓龍雲、申采浩、金素月、廉想渉らはわが文学を伝統的な文学の基礎の上に近代文学として発展させることに力を注いだが、彼らは『ニムの沈黙』、『夢の空』、『つつじの花』、『三代』などの作品をとおしてわが民族に自主独立の信念を植えつけた。沈薫、李陸史なども民族意識を盛り込んだ作品を発表し民族精気を呼び起こした。

 3・1運動以後、文学界ではかつての啓蒙主義的性格とは異なる新しい思潮が形成され、このとき一部作家は同人誌を刊行した。そのなかで代表的な同人誌は金東仁を中心とした『創造』と廉想渉が主管した『白潮』てある。

 彼らは従来の啓蒙主義的性向の作品活動を止揚し純粋文学を追求したが、廉想渉、李相和らは現実打破と現実改造の意志を表現した。そしてこの頃『開闢』、『朝鮮之光』などの雑誌が出版され、作品発表の機会が多くなり文学活動がいっそう活発になった。しかし、これら雑誌は独立運動の内容を盛り込んだ作品を発表したという理由で日帝の弾圧を受けることもあった。

[写真:『開闢』]

 文学活動は植民地の現実を克服することに努力し、新しい文学の基盤と思潮を形成した。これによって1920年代半ばには新傾向派文学が台頭してきた。

 新傾向派文学は3・1運動以後、労働者、農民が活発に組織化されるにしたがって、文学の社会的機能が強調されることによって登場した。彼らは純粋芸術を標榜する文人の覚醒を促すと同時に、文学が現実と生活を反映することを強調した。

 その後プロ文学が登場し、極端な階級路線を追求したために大衆との連帯性が弱まることもあった。そのため民族主義系列では国民文学運動を起こし階級主義に反対し、文学をとおして民族主義の理念を宣揚しようとした。そうして民族意識と民族愛の鼓吹、母国語愛、伝統文化の復興などを主要な内容とする文学運動を展開した。

 1930年代に入ってからは文学の分野も小説、戯曲、評論、随筆など多様になっただけでなく、その内容も洗練された美を整えるようになった。

 しかし日帝が中日戦争を挑発し本格的な大陸侵略を開始した後、日帝は文学作品に間接的で迂回的な抗日の表現も一切許容せず、よりいっそう日帝の軍国主義を賞賛するものだけを要求した。このような状況のもとで文人は作品活動を中断し沈黙することを貫いた。しかし一部文人のなかには李光洙、崔南善などのように日帝に動員され利用されたり、日帝に協力する人も現れた。

 専門的な文人以外に独立運動家のなかにも作品活動を行ない、民族意識と独立思想を鼓吹した人がいた。韓龍雲、李陸史、尹東柱のほかに、趙素昴は『カイロのその消息』を、玄相允は『失楽園』などの日帝に抵抗する作品を残した。また、歴史意識と民族意識を鼓吹するために、金東仁、尹白南などは多くの歴史小説を発表した。


民族芸術
 文学の進展とともに芸術面でも著しい発展を見せた。わが民族は植民地支配下でも抗日独立意識と芸術的感情を創作音楽と演奏活動によって表現した。1910年代には西洋音楽に基盤をおいて唱歌を作曲したりした。そうして国権被奪後、「学徒歌」、「漢陽歌」、「挙国歌」など亡国の民の嘆きと日帝に対する抵抗的性格の歌が大きく流行した。

 その後、わが民族の創作音楽は歌曲と童謡の形態で現れたが、洪蘭坡、玄済明、尹克栄などの多くの作品を残した。洪蘭坡は当時韓民族の心情と状況をよく表出した「鳳仙花」を作曲、発表した。また、国外では安益泰が「愛国歌」とこれを主題にした「コリア幻想曲」を作曲した。「コリア幻想曲」はヨーロッパ各国で安益泰の指揮で演奏され、合唱は大部分韓国語で歌われ大きな感動を与えた。童謡では「半月」「故郷の春」などが作られたが、これら童謡は民族的情緒によって今日まで愛唱されている。

[写真:安益泰]

 一方、美術では安中植などが韓国の伝統絵画を伝承、発展させ、西洋画では高義東以来李仲燮などの画家が輩出し、独特の境地を作りあげた。

 演劇は民族意識を鼓吹する手段としてほかのどの分野より波及効果が大きかった。演劇人は演劇をとおして民衆を啓蒙し、それとなく独立精神を鼓吹するための先頭に立った。演劇は大衆を相手にし、その表現が直接的で、韓国語の台詞を駆使することができて一体感を持たせて、わが伝統に対する愛着心を呼び起こすことができる長所を持っていた。日帝がとくに演劇に対して過酷な検閲と取り締まりを行なった理由もここにあった。

 3・1運動以前には新派劇団などがあって庶民に愛好されてきた。主に愛と涙をそそるような新派劇団は公演をとおして日帝下の国をなくした悲しみと寂しさを民衆とともに分かち合った。しかし、3・1運動以後、民族啓蒙運動が広まると、東京の留学生が劇芸術協会を組織し、演劇公演を民衆啓蒙の手段にして、この運動に活気を吹き込んだ。

 本格的な近代演劇は土月会、劇芸術研究会が組織され活動した後に登場した。これは娯楽を止揚して、より計画的に民衆の覚醒を要求する演劇を公演した。その後多くの演劇団体が各地に創立され、当時の被圧迫民族の悲惨な現実を告発し、日帝の収奪政策の残虐性を暴露した。そしてこれら劇団は全国巡回公演をとおして民族を覚醒させ民族意識を鼓吹した。

[写真:土月会会員]

 このような演劇活動も、日帝が中日戦争を契機に残酷な弾圧を加えると、演劇舞台は娯楽一辺倒の歌劇舞台に変化し、日帝の強要に耐えきれず日帝を賞賛する演劇も公演するようになった。さらに日帝末期には、日本語を使わない演劇は公演が許可されなかったので、演劇は窒息状態に落ち込んでしまった。

 映画活動はほかのどの分野よりも発展が遅かった。はじめ日本映画の補肋手段として出発し、韓国映画として独立するまでには、資本、技術、機材などで多くの困難を経験した。しかし、1926年、羅雲奎が『アリラン』を発表したことが韓国映画を画期的に飛躍させる契機になった。『アリラン』はわが民族固有の郷土的な情緒がほのかに含まれる悲しい響きを持っていて、当時日帝支配下の亡国の痛憤と悲しみをそそる一方、抗日意識と愛国心を覚醒させた。それだけでなく芸術性でもたいへん優れた作品でもあった。

[写真:羅雲奎]

 1930年代まである程度民族的な色彩をおびていた映画芸術は、1940年に朝鮮映画令が発表されると厳しい弾圧を受けた。

 第2次世界大戦が起きた後、日帝はすべての文化・芸術分野に対して統制を強化し、朝鮮文人協会、朝鮮音楽家協会、朝鮮演劇協会などを組織し、すべての活動を侵略戦争と日帝の植民統治を賞賛するように強要し、このような内容でないものはすべての活動を禁止した。


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