[ 民族の独立運動
4 社会・経済的民族運動
概要
 わが民族の社会・経済的民族運動は、1920年代はじめに社会主意思想が流入し、青年・知識人層の間に普及することによって、新しい局面を迎えるようになった。社会主義思想の流入は、一時社会・経済抵抗運動に活気を吹き込んだが、民族主義と社会主義陣営の間の対立と葛藤によって、民族の力量が分散される結果を招来した。そうしてこれを克服するために民族唯一党運動が展開され新幹会と槿友会の誕生を見ることになった。

 また、日帝の経済侵奪によってわが農民の生活は波状してしまい、日帝独占資本の浸透で民族資本は大きく抑圧された。そうしてわが農民と労働者は小作争議。労働争議をとおして日帝に強く抵抗した。これら争議は単純な経済的闘争を超えて抗日民族運動の一環として展開された。社会・経済的民族運動は国産品愛用運動と日本商品不買運動にまで拡大された。

◇研究課題◇
1 社会主義思想の流入が民族運動にもたらした影響は何か。
2 民族唯一党運動の歴史的意義は何か。
3 日帝の植民地経済政策に対するわが民族の抵抗はどうだったか。
4 民族産業を育成しようとする経済自立運動はどのように展開されたか。


1 社会的民族運動の展開
社会主義思想の流入
 3・1運動以後、国外では大韓民国臨時政府が樹立され、武装抗日運動が活発になるとともに民族運動が高潮し、国内では民族の力量を培養し日帝を追い出そうとする民族実力養成運動が各方面で起こった。

 このころ、国内外で社会主義運動が台頭しはじめた。ロシア革命に成功したレーニンが世界赤化の一つの手段として弱小民族の独立運動を支援しようとすると、一部民族指導者も社会主義と連結して独立運動を推進しようとする動きを見せた。

 社会主義思想は青年・知識人層を中心に広く波及するとともに、社会・経済運動を活性化させたこともあった。そうして青年運動、少年運動、女性運動と農民・労働運動など各方面におよぶ社会主義思想はわが民族の権益と地位向上のための活動に影響を与えた。

 しかし、社会主義運動はその路線によって理解を異にする系列があり、摩擦と葛藤が深化していき、さらに民族主義運動とは思想的な理念と路線の差異による対立が激化し、民族運動自体に大きな蹉跌を招いた。そうしてこのような状況を克服する方法が模索されて、その結果民族唯一党運動が起こった。


青年運動
 1920年代はじめ全国の青年運動団体は100余個あり、これら青年運動団体は表面的には青年の品性陶冶、知識の啓発、体育奨励、団体訓練強化などを掲げ、風俗の改良と迷信打破などをとおして社会改善を追求した。しかし、これら団体は実際には民族の生活と力量を向上させることによって自主独立の基礎を作ろうとした。

 したがって、青年団体は講演会、討論会などを開催し、学校、講習所、夜学などを設置、運用して知識の向上をはかり、運動会、早起会などをとおして心身の鍛練をはかった。また、断煙会、禁酒会、貯蓄組合などを結成し社会教化と生活改善をめざした。

 しかし、1920年代はじめに社会主義思想が流入した後、青年団体は民族主義系列と社会主義系列に分かれた。こうした青年運動の分裂を収拾するために組織されたのが朝鮮青年総同盟であった。


女性運動
 3・1運動をはじめとする国内外の抗日独立運動で、女性の命をかけた参加と犠牲の経験は女性の政治的、社会的意識を画期的に啓発する契機になった。民族実力養成運動で社会改造と新文化建設に女性の役割が要求されると、女性は自らの力でこれをなしとげるためには女性の啓蒙と教育が何よりも先決条件であることを自覚した。そうして未識字者解消、旧習打破、生活改善の実現のための女性教育啓蒙運動が活発に展開された。

 1920年代はじめ、全国的に女子青年会、婦人会など多くの女性団体が結成され活動をはじめた。女性啓蒙運動を目的にする中心団体には朝鮮女子教育会、朝鮮女子青年会があり、宗教系統では朝鮮女子キリスト教青年会が代表的であつた。

 地方では夜学、講演会などによる未識字者解消、風習改良、知識啓発を目的にする団体が組織された。1920年代後半には女性の地位向上を趣旨にした女性職業団体が組織され女性に対する技術教育、貯蓄奨励、副業斡旋などを実施したので、より多くの女性が社会活動に参加するようになった。その後、社会主義系列の女性団体が組織され活動をするようになると、民族主義系列の女性運動と対立、葛藤を見せたが、両者が統合して橦友会を結成した(1927年)。


少年運動
 青年運動の影響を受け少年運動も活発に展開された。少年運動は天道教青年会が少年部を設置することによって本格化し、その後天道教少年会として独立し、子どもの日を制定し記念行事を挙行することによって、少年運動の波は全国的に拡大した(1922年)。つづいて少年運動団体が全国各地方に組織され1925年には220余個にのぼった。

 その後全国的組織体として朝鮮少年連合会が組織され、体系的な少年運動が展開された。とくに方定燥、超戊Mなどは少年運動をとおして子どもたちに勇気と愛国心を育てた。しかし、指導者間の思想と理念の対立で少年運動も分裂した。そのうえ、中日戦争勃発後には日帝が韓国の青少年運動を一切禁止し、団体を解散したことによって、青少年運動は中断されてしまった。

子どもの日 宣伝文
○子どもは大人よりもっと新しい人です。
○子どもを決して叱りつけないでください。
○子どもを大人よりもっと大切にしなさい。
○子どもの生活を常に楽しませてください。
○子どもは常にほめながら育ててください。
○子どもの体をいつも注意して見てください。
○子どもに雑誌をつねに読ませてください。

民族唯一党の運動
 民族唯一党運動は民族主義陣営と社会主義陣営が理念を超えて単一化し民族運動を強力に推進しようとするものであった。こうして新幹会が結成された(1927年)。

 新幹会は李商在ら知識人30余人の発起でソウルで発足し、さらに各地に支会が設立されることによって、全国的な規模に発展した。つづいて日本にまでその組織が拡大し、満州にも支会設立が試みられた。

[写真:新幹会創立報道記事]

 新幹会は民族の団結と政治的、経済的覚醒を追求し、機会主義者を排撃することを基本綱領に掲げていた。光州学生抗日運動が起きたときには調査団を派遣し、民衆大会を開き日帝警察の韓国人学生に対する差別的な処置に強く抗議した。

 それだけでなく、新幹会は全国巡回講演をとおして民族意識を鼓吹し、日帝の植民統治の残虐性を糾弾した。そして水害民救護運動、在満同胞擁護運動など社会運動を展開する一方、農民運動、学生運動を支援する活動も展開した。

 新幹会の出帆とともに誕生したのが橦友会である。橦友会は金活蘭らが中心になって女性界の民族唯一党として組織され、女性労働者の権益擁護と新生活改善を行動綱領にした。しかしこの二つの団体は、日帝の巧妙な弾圧と内部の理念対立、そしてコミンテルンの指示を受けた社会主義系列の策動によって1930年代はじめに解体されてしまった。


2 経済的抵抗運動の展開
民族企業の育成
 3・1運動以後、民族運動の熱気のなかで民族産業を育成し、経済的自立をはかろうとする動きが高まっていった。しかし、日帝の各種規制によって民族企業の活動は、大きな会社の設立よりはむしろ小規模工場の建設で目立って現れた。

 当時、民族企業はいくつかの類型に分けることができた。その一つは、地主出身の企業人が、地主と商人の資本を集めて大規模な工場を建てたものであり、もう一つは、庶民出身の商人が資本を集め、新しい企業分野を開拓したものであった。

 地主出身の企業を代表するものは京城紡績株式会社であり、庶民州身の企業を代表するものは平壌メリヤスエ場であった。これらの民族企業は純粋に韓国人だけで運営され、韓国人の好みに合わせ耐久性が強く価値のある製品を作り市場へ出した。

 一方、金融業でも韓国人の進出が活発であった。3・1運動以後に設立された民族系銀行としては三南銀行などがあった。

 しかしこのような民族企業は1930年代に入って植民統治体制が強化されると、日帝の巧妙な弾圧で解体されたり、日本人企業に吸収、統合された場合が多かった。したがって、この時期の民族企業活動は1920年代に比べて大きく萎縮せざるを得なかった。


物産奨励運動
 1920年代に民族企業が次第に活気をおびていくとき、民族実力養成運動の一環として全国的に展開されたのが、朝鮮物産奨励運動であった。「われらの暮らしはわれらのもので」というスローガンを掲げて展開された物産奨励運動は、民族産業を育成することによって民族経済の自立をはかろうとする民族運動であった。この運動は最初は平壌から始まった。1922年゙晩植などが中心になって西北地方の社会系、宗教系、教育系人士を糾合して朝鮮物産奨励会を発足させ、その翌年ソウルでも組織され、間もなくこの運動が全国的に拡大した。

 この会の目的は会則に明示されているとおり「朝鮮物産を奨励し朝鮮人の産業振興を企図し、朝鮮人をして経済上の自立を獲得すること」であった。当時物産奨励運動のために各地で公募されたスローガンのなかで代表的な「われらの暮らしはわれらのもので」「朝鮮人は朝鮮のもので」「われわれはわれわれのもので暮らそう」などを見ても、この運動の性格と方向をよく理解することができる。

[写真:物産奨励運動]

 物産奨励運動は日本商品を排撃し国産品を愛用しようとするもので、全国的な民族運動としてくり広げられた。

 また、この運動は民族資本の育成のために消費節約が必要であると見て、勤倹貯蓄、生活改善、禁酒・禁煙運動も推進した。これとともに、学生の間では自作会運動が展開された。

 物産奨励運動は初期には全国的に拡大し活発に推進されたが、日帝の弾圧で大きな成果をあげられなかった。


農民運動
 日帝の土地収奪によって小作農に転落したわが農民は日本人地主に収穫量の50%以上を小作料として納めるだけでなく、そのほかにすべての税金と肥料代金まで負担しなければならなかった。このような状況で、農民の小作争議がたびたび起こった。とくに、日本人地主に対抗して起きた小作争議は農民の生存権闘争であり、ひいては日帝の収奪行為に強く抗議する抗日民族運動の性格をおびたものであった。

 小作争議は1919年はじめて発生して以来毎年増加した。初期の争議が小作権移転や高率小作料に対する反対闘争であったのに比べて、1930年代以後の争議は日帝の収奪に抵抗する民族運動の性格をおびながら、さらに激しくなっていった。数多くの小作争議のなかで代表的なものは黄海道載寧で起きた東洋拓殖株式会社農場での小作争議であった。

[資料:年度別小作争議発生件数(『朝鮮小作年報』1938)]

 全国的な農民組織は朝鮮農民総同盟の結成が嚆矢であった(1927年)。以後、全国各地に数多くの農民組合が結成され、争議はより組織的に展開されていった。


労働運動
 労働運動は主に日帝の植民地工業化推進にともなう過酷な労働条件によって発生した。労働争議は低賃金問題と劣悪な労働条件が重要争点であったが、罷業となると、例外なく警察が介入し多くは失敗した。争議が発生したところは大部分日本人が経営する工場であったので、争議は反帝・反日闘争としての政治的性格をおびた。そのなかで代表的なものは元山労働者総罷業であった。

 日帝は1930年代に大陸侵略戦争に必要な軍需品を生産するために軍需工業施設を拡充し、地下資源を略奪し、労働力を動員した。そのようななかで、日帝は韓国労働者の賃金をより引き下げ、労働時間を延長するとともに、各種負担金を強制的に徴収した。

[写真:労働現場で酷使されるわが同胞]

 そうして労働者の生活が急激に悪化すると罷業が続発し、ついに労働者は地下組織を持った労働組合を結成し持続的に労働争議を展開した。しかし、日帝の過酷な弾圧で労働争議は次第に滅少してしまった。

 一方、差別を受けてきた白丁は甲午改革によって法制的には権利を認められたが、社会的には長い慣習のなかで依然として差別を受けていた。これに反発して白丁は晋州で朝鮮衡平社を創立し(1923年)、平等な待遇を要求する衡平運動を展開した。


3 国外移住同胞の活動と試練
満州移住同胞
 わが民族が満州地域に移住しはじめたのは19世紀後半からであった。はじめは国内の政治的・経済的・社会的矛盾で窮乏した農民が生活基盤を求めて国外に移住した。しかし、20世紀に入って日帝の侵略が加速化されると、確固とした民族意識を持った多くの人々が抗日運動を展開するために移住していった。

 彼らは知識水準がかなり高く、経済的余裕もあり、国権回復運動の指導的役割を担った。ところが移住同胞は現地土着民から圧迫を受けながらも、荒蕪地を開墾し生活根拠地を作り、数多くの民族学校を設立し、抗日意識と愛国心を鼓吹した。それだけでなく、抗日運動団体を結成し軍事訓練を実施し武装抗日運動を準備した。

 3・1運動以後には独立軍を編成し、国境を越えながら日本軍警と激しい抗日線を展開したが、日帝の過酷な弾圧と中国軍閥の理解不足で多くの困難を経験した。そのうえに、日本軍大部隊が満州に出兵し、独立運動基地を焦土化するとともに無差別に虐殺した間島惨変によって多くの同胞が殺された(1920年)。

 1930年に入って、わが同胞は日帝の本格的な大陸侵略によって根拠地を失うとともに様々な受難を受け、満州における武装部隊の活動は次第に弱まっていった。


沿海州移住同胞
 ロシアは辺境開拓のために最初は韓国人の沿海州移住を認め土地を提供したこともあって、ここの同胞の暮らしは満州移住同胞より良い条件だった。そうして早くから多くの同胞が定着するようになり民族運動を推進する基盤が作られた。

 1905年以後移住韓人が急増して各地に韓人集団村が形成され、多くの民族団体と学校が設立された。そして国内での義兵運動に呼応して義兵活動を展開することによって、国外義兵運動の中心地になり、1910年にはここに沿海州義兵の統合体である13道義軍が結成された。そして1914年にはウラジオストックで民族指導者が集まり大韓光復軍政府を結成し、3・1運動のときには大韓国民議会を組織し孫秉煕を大統領とする政府を樹立した。

 しかし、1920年代はじめシベリア内戦が終わり、ボルシェビキが政権を掌握した後、韓国人の武装活動を禁止し、武装解除を強要したことによって、沿海州での民族運動は弱体化した。1937年には沿海州の韓人がソ連当局によって中央アジアに強制移住させられ、その過程で数多くの韓人が犠牲になり、財産をなくしてしまった。


日本移住同胞
 19世紀末日本に渡っていった韓人は学問を学ぶための留学生が主流であった。しかし、日帝がわが国の主権を強奪し強制的収奪を強化すると、生活基盤を失った農民が産業労働者として日本に渡ったため、その数が増加した。彼らは日帝の資本家に搾取されながら、劣悪な労働環境で苦労しなければならず、日本人の民族差別によっていろいろな侮辱を受けなければならなかった。

 1923年の日本の関東地方で発生した地震で人命と財産上に大きな被害を受け、日本内の民心が荒廃した。このとき、日本当局は「朝鮮人が暴動を起こし日本人を殺している」という流言飛語を広め、社会不安の原因を韓国人のせいに転じた。これによって在日同胞6000余人が日本人に虐殺される大惨事が発生した。


アメリカ移住同胞
 韓人のアメリカ移民は20世紀はじめから始まった。移住民は主に男子で農民出身が多かった。彼らは大部分ハワイに移住しサトウキビ農場に雇用され、アメリカ西海岸に移住した人は鉄道工事場、野菜農場などで働いた。移住民は低賃金と劣悪な労働環境で多くの犠牲を被った。さらにメキシコ、キューバに移住した人は奴隷と同じ生活を強いられ搾取された。

 このように、困難な生活のなかでも民族意識がしっかりしていて愛国団体を結成して独立運動資金を集めて国内に送金することも多かった。それだけではなく、新聞社を設立して新聞と雑誌を発行し、愛国心を鼓吹し、1910年には統合団体である大韓人国民会を組織し抗日運動を展開した。この団体はアメリカ朝野に日帝の野蛮性を暴露、糾弾し、韓国の独立を主張する外交活動を活発に展開した。

 1919年大韓民国臨時政府が樹立された後には、各種義捐金を集め臨時政府に送金し、臨時政府の外交機関である欧米委員都の活動を積極的に支援した。第2次世界大戦のときには軍事活動も展開して韓人軍を編成し、多くの韓人青年がアメリカ軍に志願入隊し、太平洋戦争で日本軍と戦った。


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