[ 民族の独立運動
2 民族の試練
概要
 20世紀に入って日帝の侵略行為が本格化するにつれ、わが民族は政治、経済、社会、文化の各方面において自主権を侵奪された。

 日帝はわが民族の抵抗を武力で弾圧し、われわれの主権を侵害する各種の条約を強要したうえ、最後には国権までも強奪し植民地にした。そして植民政治機関として朝鮮総督府を設置し、協力な軍事力を背景に世界でその類例のない武断政治をほしいままに行った。

 これに対してわが民族は挙族的な抵抗をしたが、日帝は植民統治方式を変えて、わが民族を離間、分裂させようとした。さらにより強圧的に民族を弾圧し、韓民族の文化と伝統を抹殺しようとした。

 また、日帝は大陸侵略を強化し、韓半島を兵站基地にしていったが、これによってわが民族は人的・物的資源を収奪され民族の生存権まで脅威にさらされた。

◇研究課題◇
1 日帝の国権侵奪はどのような段階を経て行なわれたか。
2 日帝の韓国侵略に対する列強の態度はどうだったか。
3 乙巳条約が無効である理曲は何か。
4 3・1運動以後、日帝の統治方式はどのように変わっていったか。
5 日帝の植民地収奪政策の目的と方法はどうだったか。


1 国権の被奪と民族の受難
国権の被奪
 清日戦争以後、日本は満州と韓半島を独占的に支配しようとし、ロシアと鋭い対立を見せたが、ついに露日戦争を起こした(1904年)。

 露日戦争が起こると、大韓帝国は両国の戦争に巻き込まれないように局外中立を宣言した。しかし、日帝は戦争挑発と同時に韓国侵略の足場を固めるために大規模の兵力を韓国に投入し、ソウルをはじめとして全国の軍事的要地を占領した。また、韓国政府を威嚇して日本軍の戦略上必要な地域を勝手に使用し、日本の同意なしに第三国と条約を締結できないという内容の韓日議定書を強要した。

 その後、戦勢が日本に有利に展開すると、日帝は韓国植民地化方案を確定し、引き続き第一次韓日協約の締結を強要し、外交と財政分野に日本が推薦する外国人顧問を置くようにした。しかし、実際には協約にもない軍部、内部、学部、宮内府など各部にも日本人顧問を置いて、韓国の内政に思うままに干渉した。

 日帝は露日戦争に勝利した後、より露骨に植民地化政策を強行した。すなわち、日帝は露日戦争を前後してアメリカ、イギリス、ロシアなど列強から韓国の独占的支配権を認定された後、韓国を保護国にしようとする、いわゆる乙巳条約の締結を強要してきた(1905年)。

 高宗皇帝と政府の大臣の強力な反対にもかかわらず、日帝は軍事的威嚇を加えて一方的に条約成立を公布し、大韓帝国の外交権を剥奪し、統監府を設置し内政にまで干渉した。これに対して高宗皇帝は、自分自身が条約締結を拒否し署名捺印しなかったことをあげて国内外に条約の無効を宣言し、ハーグに特使を派遣し条約の無効を再び明らかにした(1907年)。

 統監府を設置して大韓帝国の内政権を掌握した日帝は、大規模な日本軍を韓半島に派兵してわが民族の抵抗を無慈悲に弾圧し、ハーグ特使派遣を口実に高宗皇帝を強制的に退位させた。それだけでなく、皇帝の同意もなく韓日新協約(丁未7条約)を強制的に締結し、わが政府各部に日本人次官を置いた。さらに軍隊解散に反対して蜂起した大韓帝国軍の抵抗を武力で鎮圧し、大韓帝国を防衛力のない国にしてしまった。

 その後、日帝は燎原の火のように燃え盛るわが民族の主権守護運動を武力で弾圧し、司法権、警察権を奪った後、ついに国権までも強奪した(1910年)。


朝鮮総督府
 国権強奪以後、日帝は植民統治の中枢機関として朝鮮総督府を設置し、韓民族に対する政治的弾圧と経済的搾取をほしいままに行なった。そうして日本軍現役大将が朝鮮総督に任命され、植民統治の全権を掌握した。朝鮮総督は日本の内閣の統制を受けずに日本国王に直属し、立法、行政、司法および軍隊統帥権まで掌握した絶対権力を行使した。このように強大な権限が総督に付与されたのは、わが民族の独立運動を朝鮮総督が意の如く徹底的に弾圧することにその目的があった。

 総督府の組織は総督の下に行政を担当する政務総監と治安を担当する警務総長がおり、総督府の官吏はほとんど日本人によって占められた。そして諮問機関として中枢院を設け、韓国人を政治に参加させる形式をとったが、これは韓国人を懐柔するための術策にすぎなかった。中枢院は3・1運動のときまでおよそ10年間、1回の正式会議も招集されなかったことだけを見ても、これは名ばかりの機関であったことがわかる。


憲兵警察統治
 国権が強奪され、韓半島には日本軍2個師団と2万余人の憲兵警察および憲兵補助員が配置され、強力な憲兵警察統治が実施された。

 日帝の憲兵警察による武断植民統治は世界にその類例のないものであった。日本の憲兵司令官が中央の警務総長となり、各道の憲兵隊長がその道の警務部長となった。そして全国各地に憲兵警察が配置され、わが民族は武力によって生存までも脅威にさらされた。

 憲兵警察の主要任務は警察の業務を代行すること以外に、独立運動家を捜索し処断することにあった。彼らには即決処分権がありわが民族に対し思いのままに笞刑を行なった。韓国人のあらゆる行為は憲兵警察の判断によって裁判もなく拘留されたり重い罰金が賦課された。また、一般官吏はもちろん、学校教員にまでも制服を着せ、刀を下げさせたことは威嚇的な憲兵警察統治の一手段であった。

[写真:憲兵警察統治下の植民地教育]

 わが民族はこのような日帝の憲兵警察統治によって言論、集会、出版、結社の自由を剥奪され、民族指導者は逮捕、投獄、虐殺された。ために、救国運動を行なって投獄された人士が数万人に達したときもあった。日帝はいわゆる105人事件
(1)や様々な独立運動結社に関連した独立志士を逮捕、拷問し独立運動の抹殺をはかった。


(1) 日帝は1910年12月、平安道を中心にした排日キリスト教勢力と新民会の抗日運動を弾圧するために総督暗殺陰謀をたくらんだと捏造し、数百人の民族指導者を投獄し、このなかで中心人物105人を裁判に回付した。


植民地支配政策の変化
 わが民族は、日帝の無慈悲な植民統治に対抗して挙族的な3・1運動を起こした。しかし、日帝の残忍非道な武力弾圧によってそれはいったん挫折を余儀なくされた。

 韓民族の挙族的な3・1運動とそれによって悪化した国際世論に直面した日帝は、植民統治政策の転換を模索しなければならなかった。日帝はそれまで現役軍人を朝鮮総督に任命、派遣していたのを改めて文官でもその地位に任命することができるようにし、憲兵警察制を普通警察制に変えた。

 しかし、このような植民政策の転換は、韓民族を欺瞞し過酷な植民統治を隠蔽するための、より奸悪で狡猾な統治方式だった。わが国から日帝が放逐されるまでの間、文官の総督は一人も任命されず、また普通警察制度への移行は憲兵警察を制服だけ着せ替えたにすぎなかった。むしろ警察の数と装備、そしてその維持費は3・1運動以前より大きく増加した。それだけでなく、高等警察制度を実施し、わが民族に対する監視と弾圧をより強化した。

 また、このときに『朝鮮日報』と『東亜日報』などわが民族の新聞発行が許可され、同時に教育の機会を拡大するという、いわゆる文化統治が打ち出されたが、それも欺瞞政策の表面的スローガンだけであった。実際に言論に対しては検閲を強化し自分たちの気に入らない記事は勝手に削除し、さらには新聞の停刊を茶飯事に行ない、廃刊までも躊躇しなかった。

[写真:日帝によって削除された新聞記事]

 日帝のいわゆる文化統治は実際には少数の親日分子を育て、わが民族を離間、分裂させ、民族の近代意識の成長を歪曲し、初級の学問と技術教育だけを許容し、日帝の植民地支配に役に立つ人間を養成するためのものだった。


民族抹殺統治
 1920年代後半、世界的に吹きあれた経済恐慌の難局を打開するために、日帝は日本本土と植民地を一つに結びつける経済ブロックを形成した。これによって韓半島の労働力と資源は日帝によって徹底的に収奪された。

 その後、日帝は満州を占領し、さらに中日戦争を挑発して(1937年)、本格的に大陸侵略を強行するとともに、韓国を大陸侵略の兵站基地にした。そして、植民政策を強化し、わが民族をさらに弾圧し、あらゆる分野にわたって植民地収奪政策を強化した。

 日帝はこれにとどまらず太平洋戦争を挑発した後、戦争遂行のために韓国の人的・物的資源収奪に狂奔した。それだけでなく、わが民族の文化と伝統を完全に抹殺し、韓国人を日本人に同化しようとあらゆる手段と方法を動員した。

 わが民族は日帝の内鮮一体、日鮮同祖論、皇国臣民化のような荒唐無稽なスローガンのもとで、わが国の言葉と歴史を学ぶことができなかった。また、皇国臣民の誓詞暗誦、宮城遥拝、神社参拝はもちろん、はなはだしくはわれわれの姓名までも日本式に変えるように強制した。日帝はこれを拒否する人に対しては投獄、殺傷までも躊躇せず、このような政策に従わない宗教系統の学校は閉鎖された。

 また、わが民族は戦争に必要な食糧と各種物資を収奪され、わが国の青年は志願兵という名目で、また徴兵制と徴用令によって、日本、中国、サハリン、東南アジアなどに強制動員され、命を失い、女性まで挺身隊という名で強引に連行され日本軍の慰安婦として犠牲になった。

 このような日帝の植民地政策は韓国の自主的近代化と発展に莫大な支障をきたした。あらゆる政策が日帝の植民統治のための手段として計画され執行され、施設の設備投資もやはり同じ目的で行なわれたために、わが民族には何の役にも立たなかった。


2 経済の略奪
土地の略奪
 開港以後、わが国は日帝の資本主義の侵略を克服するために努力した。しかし、わが国は日本の通信・交通施設の占有と拡大、貨幣金融の侵食など経済的浸透を防げず国権を侵奪された。

 国権被奪後、各種産業は日帝の植民地経済体制に改編された。そのなかでも核心的なのは、農業部門で行なわれたいわゆる土地調査事業で、その目的は全国的な土地略奪にあった。国権強奪以前に、すでにわが国での日本人の土地所有を認める法令を制定していた日帝は、引き続き土地調査令を発表し、莫大な資金と人を動員して、全国的な土地調査事業を行なった。そして近代的所有権が認定される土地制度を確立すると宣伝した。

 これによって、わが農民は土地所有に必要な書類を具備して定められた期間内に申告する場合のみ所有権を認められた。しかし、当時、土地申告制が農民に広く知られておらず、申告期間が短いのに比べ手続きが複雑なので、申告の機会をのがした人が多かった。日帝が申告手続きを複雑にしたのは、いうまでもなく韓国人の土地を奪い取るための手段であった。また、農民のなかには日帝の施策に協助したくないという民族感情のために申告を故意に忌避し、申告されない土地が多かった。

 日帝はこのような未申告地はもちろん、公共機関に属していた土地、村や門中の土地と森林、草原、荒蕪地なども全部朝鮮総督府所有にしてしまった。こうした土地調査事業によって不法に奪取された土地は全国土の約40%にもなった。

 朝鮮総督府は奪取した土地を東洋拓殖株式会社をはじめとする日本人の土地会社や個人に安値で払い下げた。突如、土地を略奪された農民は日帝当局にその不当性を抗議したが、日帝当局は正当な事由がないとして無視した。

 いわゆる土地調査事業の実施は韓国農民の生活基盤を徹底的に崩した。従来の農民は土地の所有権とともに耕作権も保有していたが、土地調査事業以後、多くの農民は期限付き契約による小作農へと転落してしまった。そうして生活基盤を喪失した農民は日本人の高利貸に苦しめられ、生計維持のために火田民になったり、満州、沿海州、日本などへの移住を余儀なくされた。


産業の侵奪
 日帝の植民地経済政策は、わが国の米穀と各種原料を安値で買い、日本で作られた製品を、高い価格で売って二重に搾取するものであった。

 朝鮮総督府はわが農民を没落させる土地調査事業以外にも、林業、漁業、鉱業など産業全般にわたって徹底した搾取政策を行なった。そうしてわが国の産業経済活動は日帝が設立した金融組合、農工銀行などによって統制された。それだけでなく、日帝は民族企業を規制するために会社令を制定・公布した。会社令は企業の設立を総督の許可制にし、許可の条件に違反するときには総督が事業の禁止と企業の解散を命じられるように規定した。こうして韓国人の企業活動が抑圧され民族産業の成長が阻害されれ鉄道・港湾・通信、航空、道路などは朝鮮総督府と日本の大企業が独占し、人参、塩、煙草などは朝鮮総督府が専売した。そのために民族資本は萎縮し、経済発展の道も閉ざされた。

 1920年代中盤に入ると、日本人の資本投資は軽工業から重工業分野に移っていった。1926年威鏡道に赴戦江水力発電所が完成し、翌年にその電力を利用した朝鮮窒素肥料工場が興南に建てられると、重工業への投資が活気をおびはじめた。とくに、1930年代には日本が満州と中国を侵略することによって、わが国は軍需物資を供給する兵姑基地になり、日本人の重工業投資がさらに増加するようになった。

 林業分野でも山林令による林野調査事業が実施され、莫大な国・公有林と所有主が明確でなかった林野がほとんど日本人の手に移り、林野全体の50%以上は朝鮮総督府と日本人に占奪された。

 漁業分野での侵奪も例外ではなかった早くから韓国海岸に侵入し、わが漁民より優れた船舶と器具で多くの漁獲高をあげていた日本漁民は、1910年以後朝鮮総督府の後援の下でわが漁場を独占した。総督府は漁業令を公布し、日本漁民の成長を支援し、わが漁民の活動を抑圧した。こうしてわが漁民は奪われた漁業権の回復と守護のための抗争を全国の漁場で熾烈に展開した。日本の漁獲高が一時世界第2位を記録することができたのは、わが国の主要漁場を独占支配したためである。

 朝鮮総督府は鉱業においても全国の鉱産資源を広い範囲で調査し、わが民族の鉱業活動を制約する鉱業令を制定、公布した後・日本人財閥に多くの鉱山を渡した。とくに、第1次世界大戦によって軍需鉱産物の需要が激増すると、この需要を充当するために、本格的に鉱産物略奪が行なわれた。こうして日本の大財閥が鉱業に参加し、生産物の大部分は日本へ搬出された。

[資料:民族別沿海漁業状況(1918)]
[資料:民族別稼働鉱区数および鉱業生産額]


食糧の収奪
 第1次世界大戦に参戦し、資本主義の基盤を急速に成長させた日帝は、高度成長のためにわが国に対する経済的収奪をいっそう強化した。

 日帝は、工業化の推進による食糧の不足分をわが国から搾取しようとする、いわゆる産米増殖計画を立て、これをわが農村に強制した。1920年から15年計画で推進された産米増殖計画は、920万石を増産するという無理な目標を設定したために、増産量を達成することができなかった。ために日帝は土地改良事業をとおして増産をはかるが、この計画も目標どおりに達成できなかった。

[資料:米穀生産量と日帝の収奪量]

 しかし、米穀収奪だけは目標どおりに遂行したために、わが国の農村経済を破綻に陥れた。増産量よりはるかに多い量の米穀を収奪したので、わが農民は食糧事情が極度に悪化し、飢餓線上に苦しむようになった。このため食糧の不足分を満州産の安価の雑穀で充当しようとしたが、根本的な解決策にはならなかった。当時、わが農民は水利組合費、増産に投入された運搬費などをも負担したので、二重の苦痛を受け、生計はますます困難になった。


大陸侵略と総動員令
 第1次世界大戦以後、アメリカの産業は技術の発達と企業の合理化によって生産力が高まった。しかし、商品の購買力が生産量に追いつかず、供給過剰現象をまねき、1929年ニューヨークの証券市場で株価が急落し、経済恐慌が起こった。この恐慌は急速に世界各国に波及し、経済破綻をもたらした。

 経済基盤の弱かった日本も大きな打撃を受け、都市失業者が増加し、農村経済が崩壊し、罷業と小作争議が頻繁に起こり、社会不安が増大し、政府に対する不信は日ごとに高まっていった。

 この過程で日本軍部は政変を起こし実権を掌握し、経済恐慌の打開策として大陸侵略を敢行し満州事変を起こした。そしてわが国を大陸侵略の兵鈷基地にし、経済的収奪を強化した。

 日帝の経済侵奪は1930年代に入って新しい様相で展開した。日帝は産米増殖計画が困難に直面すると、工業原料増産政策に方向を換え、綿花の栽培と綿羊の飼育を試みる、いわゆる南綿北羊政策を立て、これをわが農村に強要した。

 また、日帝は侵略戦争のために発電所と軍需工場を建て、鉱山を開発し、金属・機械・重化学工業を育成した。しかし、これらはすべて日帝の戦争遂行のためのものであって、韓半島の経済を植民地経済体制にいっそう徹底的に隷属させるものであった。

 中日戦争を起こし、大陸侵略を本格化した日帝は、国家総動員令を下し、韓国で人的・物的資源の収奪を強化した。

 日帝は軍糧確保のために、中断していた産米増殖計画を再開し、目標量を定めて各道に割り当て、これをまた府・郡・邑・面を経て各村、各個人にまで割り当てた。また、消費規制を目的に食糧配給制度を実施し、さらに米穀供出制度も施行した。そして総督府は日本軍の軍需品に充当するために各種家畜増殖計画を立て、家畜の収奪も強化した。

 引きつづき日帝は太平洋戦争を挑発し戦争物資収奪に狂奔した。すべての金属製容器を強制的に供出させたが、農具、食器、祭器はもちろん、教会や寺院の鐘までも徴発し武器の製作に用いた。

 そして日帝はわが国の青壮年と婦女子まで日本、中国、東南アジア、サハリンなどへ強制動員し戦争に投入したり、労役に従事させたりした。

[資料:米穀生産量と強制供出量]


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