[ 民族の独立運動
[写真:タップコル(パゴダ)公園のレリーフ]
単元の概観
 19世紀後半、帝国主義列強の侵奪が強化されていくなかで、近代民族国家の樹立を追求していたわが国は、20世紀はじめ、武力を前面に押し立てた日帝の侵略に国を強引に占領されてしまった。これによって多数の民族指導者が逮捕、投獄され、民族の生存権すらも侵害された。

 しかし、わが民族はこのような民族的危機を克服するために独立運動を多様に展開した。すなわち、武装独立闘争、民族実力養成運動、独立外交活動などいろいろな方略によってねばり強く日帝に対抗した。とくに、3・1運動以後には大韓民国臨時政府を中心に独立運動がより体系化、活性化した。第2次世界大戦中には日本とドイツに宣戦布告し、韓国光復軍は連合軍とともに日本に対抗して戦った。そうしてわが民族は1945年光復を迎えることができた。


1 民族運動の動向
概要
 19世紀後半に帝国主義西欧列強は原料供給地と商品市場を確保し、国内の剰余資本を海外に投資するためにアジア、アフリカなどの後進地域を植民地化する侵略を強行した。このような列強の植民地確保競争は、結局相互に利害関係が対立して衝突するようになり、その結果第1次世界大戦が起こった。

 大戦以後、世界平和のための民族自決主義が主張され、国際連盟が誕生したが、戦勝国の利害関係で一部弱小民族だけが解放されることになった。

 1929年に経済恐慌が起こり、これを収拾する過程で経済基礎が弱かったイタリア、ドイツ、日本で全体主義が登場し、この国の侵略によって第2次世界大戦が起こった。

◇研究課題◇
1 第1次世界大戦後世界情勢はどのように変化したか。
2 アジア地域での民族運動はどのように展開したか。
3 1910年代民族独立運動の国内外の背景はどうだったか。


1 世界の民族運動
弱小民族の試練
 1919年1月から第1次世界大戦の後始末のために戦勝国の講和会議がパリで開催された。この講和会議の基本原則はアメリカ大統領ウィルソンが提唱した14カ条の平和原則であった。そのなかでも民族自決主義の原則は、植民地状態からの解放と独立を熱望する弱小民族に大きな希望を抱かせた。

 しかし、ウィルソンの民族自決主義原則は戦勝国の植民地には適用されず、敗戦国やロシアの支配下にあった一部弱小民族にだけ適用された。したがって、第1次世界大戦直後に成立したベルサイユ体制では、ポーランド、フィンランド、エストニア、リトアニア、ラトビア、チェコスロバキア、ハンガリーなどが独立を達成した。しかし、フィリピンとインドをはじめとする戦勝国の植民地は、民族自決主義原則の提唱にもかかわらず、解放と独立を達成することができなかった。よって植民地支配下にあった大多数の弱小民族は引き続き試練を受けることになった。

 一方、1917年の11月革命で共産主義体制を確立したソ違はコミンテルンを結成し、反帝国主義民族運動および弱小民族の独立運動と連携をはかりながら共産主義勢力を浸透させようとした。


アジア各国の民族運動
 第1次世界大戦直後にアジア各国では反帝国主義民族運動と独立運動が活発に起こった。

 中国では1919年に大規模な民族運動である5・4運動が起こった。これは北京の大学生が中心になった日本の21カ条要求撤廃、親日官吏の罷免を要求する大々的な示威に始まって、たちまち全国に広まった。各界各層の中国人が積極的に呼応した5・4運動は反帝国主義、反軍閥、国権回復のための民族運動として、その歴史的意義は大きかった。以後、孫文の国民党は中国共産産党と捉携し、第1次国共合作を成立させ、その後を継いだ蒋介石が北伐を断行し南京に国民政府を樹立し、つづけて北京の軍閥政府を打倒し中国統一を達成した。

[図:アジアの民族運動]

 インドではガンジーを中心に完全な自治を掲げて、非暴力、不服従の民族運動を活発に展開した。間もなく完全な独立を要求する民族運動も台頭し、その後ねばり強く続けられた。

 第1次世界大戦に敗北したオスマン帝国は戦後、多くの領土を喪失し、小国に転落した。ケマルパシャはオスマン帝国のスルタンを退位させ、新しいトルコ共和国の初代大統領になった。彼は大々的に近代化作業を推進し近代国家への発展を達成した。そしてイランとイラクなども次第にイギリスの支配から抜け出し独立国家に成長した。

 一方、東南アジアの各国でも植民地支配からのがれようとする民族独立運動がねばり強く展開された。しかし、これらの国の独立は第2次世界大戦以後まで待たなければならなかった。


2 韓国の民族運動
民族運動の特殊性
 日帝は世界史でその類例を見出せないほど徹底した悪辣な方法でわが民族を抑圧、収奪した。これによってわが民族は生存権まで脅威にさらされたが、これに屈せず独立を勝ち取るために挙族的に抗日民族運動を展開した。

 しかし、20世紀はじめの国際情勢はわれわれに有利ではなかった。すなわち、民族運動はアメリカ、イギリスなどの列強がわれわれの独立の努力を無視する汎世界的帝国主義体制下で孤立したまま推進されたよって、わが民族の独立運動はほかのどの民族の独立運動よりも難しく困難なものだった。

桂・タフト密約の内容
第1、 日本はフィリピンに対して何らの侵略的意図を持たず、アメリカのフィリピン支配を確認する。
第2、 極東の平和のために米・英・日三国は実質的な同盟関係を確保する。
第3、 露日戦争の原因になった韓国は日本が支配することを承認する。
第2次英日同盟の内容
 英国は、日本が韓国内で持っている利益を擁護、増進するために必要と認められる指導、統制および保護の措置を韓国で行なう権利を承認する。


抗日運動の展開
 1910年主権を奪取された後、義兵を中心にしたわが民族の抗日武装勢力は満州と沿海州に移動し、独立運動基地建設と独立戦争準備に力を注いだ。一方、国内の民族指導者は日帝の監視と弾圧を避けて秘密結社を組織し、教育、宗教、文化、産業など各界で日帝と直接、間接に戦った。

 3・1運動以後、中国上海に大韓民国臨時政府が樹立され、われわれの民族運動を組織化し体系化することで抗日独立運動は本格化した。すなわち、臨時政府を中心に民族指導者は独立を勝ち取るための国際外交活動を展開し、満州と沿海州に根拠地を置いていた抗日武装部隊は日帝を韓半島から追放するために本格的な独立戦争をくり広げた。それだけでなく国内では強力な日本帝国主義勢力の民族抹殺政策に対抗して民族文化を保存、守護する一方、民族の力量を培養するために民族実力養成運動を展開した。このような抗日独立運動は1945年まで展開され、その結果、日帝から光復を勝ち取ることができた。


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