Z 近代社会の展開
4 近代の文化の発達
概要
 開港以後、朝鮮では西洋の科学技術を受け入れ富国強兵を企図しようとする努力が試みられた。電信、電話、電灯が架設され、汽車と電車が開通し、新しい医療と建築術が導入された。

 近代学校が設立され、民族主義教育が実施され、国権回復のための自覚で国学運動が大きく起こり民族主義史学の基礎が作られ、ハングル専用、国・漢文併用で文体の改革も起こった。

 1980年代の韓国文学は新文学の風潮が起こり、新小説が登場し、近代詩の様式が開拓された。芸術面では西洋の音楽と絵画が紹介され、新劇運動も起こった。宗教面ではキリスト教が普及し、近代医術と近代教育を振興させ、東学、大倧教などが民族宗教として定着し民族意識を鼓吹した。

◇研究課題◇
1 近代技術と近代施設の受容が持つ意味は何か。
2 近代教育はどのように発展し、どのような性格を持っていたか。
3 大韓帝国の時期に国学運動が起こった背景とその意義は何か。
4 大韓帝国の時期に宗教界の動向はどのようだったか。


1 近代文明の受容
科学技術の受容
 西洋科学技術に対する関心は、17世紀以後実学者によって芽生えはじめた。開港以後には西洋科学技術の優越性が認定され、わが国の精神文化は守るが、西洋の科学技術は受け入れようという東道西器論が提唱された。さらに当時の開化思想家は科学と技術が国を富強にするという考え方から、外勢の侵略を防ぎ社会発展をなしとげるためには何よりも西洋の科学技術を受容しなければならないと主張した。

 開港以前の興宣大院君の執権期にも西洋の侵略に対応するために西洋の武器製造術に多くの関心を傾けた。開港以後には、武器製造技術以外に産業技術の受容にも関心が高まって、1880年代には養蚕、紡績、製紙、鉱山などに関する機械を導入し、外国の技術者を招聘するなど西洋の技術を導入することに力を注いだ。

 1890年代に入って、開化知識人は近代的科学技術の受容のためには教育制度の改革が急務であることを認識するようになった。甲午改革以後、政府は留学生や海外派遣を奨励し、教育施設を整えることに努力した。その結果、京城医学校、鉄道学校、鉱業学校など各種の近代的な技術教育機関が設立された。

[写真:草創期の汽車]

 技術教育の向上のための政策は財政の困難で多くの試行錯誤があったが、国権を奪い取られる前まで粘り強くつづけられ、ある程度の成果をあげた。


近代施設の受容
 開港以後、近代文物と科学技術が導入され、交通、通信、電気、医療、建築など各分野で新しい施設が整えられ、これによって生活様式も変貌するようになった。

 1880年代の紳士遊覧団の日本派遣と領選使の清国派遣は近代的技術導入に重要な契機になった。政府は博文局、機器廠、典圓局など近代施設を整備し、新聞を発行し、武器を製造し、貨幣を鋳造した。

 近代的印刷術の導入は博文局の設立ではじめられたが、ここから発刊された『漢城旬報』は新しい知識の拡大に寄与した。このころ広印社のような出版社も設立され、近代技術に関する書籍が出版された。

 新しい通信施設も整っていった。電信はソウルと仁川の間に電線が架設されてはじまり、その後に中国、日本と連結する国際通信網も敷設された。電話ははじめ宮城内に架設され、その後ソウル市内の民家にも架設された。

 近代的郵便制度は郵政局の設置からはじまり、甲申政変で中断されたが乙未改革以後再開された。そして政府は万国郵便連合にも加入し外国と郵便物を交換するようになった。

[写真:草創期の電話交換員]
[写真:鐘路通りの電車]

 近代的交通施設として鉄道は京仁線が最初に敷設されたが、これは外国人によって作られた。京釜線と京義線は露日戦争中に日本の軍事的目的によって敷設された。

 一方、皇室とアメリカ人の合資で設立された漢城電気会社が発電所を建設し、西大門と清涼里の間に最初に電車を運行し、ソウル市内の一部に電灯を架設した。

 新しい医療施設と技術も導入された。政府は近代式病院である広恵院を設立し、宣教師アレンに運営させるようにした。これより先に、池錫永は種痘法を研究、普及させ国民保健に貢献した。その後、政府は広済院と大韓医院などを設立し新しい医療技術を普及して、全国各地に慈恵医院を建て医療施設を拡張した。一方、改新教ではセブランス病院などを建て医療普及に寄与した。

[写真:広恵院]

 建築部門でも西欧様式の建物が建てられた。独立門はフランスの凱旋門を模範として建立したもので、ルネッサンス式の建物である徳寿宮石造殿、中世ゴチック式の建物である明洞聖堂もこの頃建てられたものである。

[写真:徳寿官石造殿]

 このように、門戸開放以後に、各分野にわたって造られた近代的施設は民衆の社会・
経済的生活改善に貢献した。

 しかし、このような文明施設は外勢の利権または侵略目的と関連していたところに間題点があった。


2 近代教育と国学研究
近代教育の発展
 近代教育は開化運動の一環として1880年代からはじめられた。威鏡道徳源の住民は開化派人物の勧誘によって元山学舎を建て、近代学問と武術を教えた。同じ時期に政府は同文学という英語講習機関を建て英語を教えた。その後、政府は育英公院を建てて、アメリカ人教師を招聰して上流層の子弟を選んで英語をはじめとして数学、地理学、政治学など各種の近代学問を教育した。

 甲午改革によって近代的教育制度が整い、つづいて「国家の富強は国民の教育にある」という内容の教育立国詔書が頒布された。教育立国の精神によって政府は小学校、中学校、師範学校、外国語学校などの各種の官立学校を建てた。

 一方、改新教宣教師の入国を契機に培材学堂、梨花学堂、儆新学校、貞心女学校、崇実学校などのキリスト教系統のいろいろな私立学校が設立された。これら近代学校では近代学問を教える一方、日本の侵略に対応する民族意識の覚醒に大きな役割をした。

[写真:培材学堂新築工事]

 1905年乙巳条約以後、国権回復を目標に愛国啓蒙運動を展開した民族指導者は、「学ぶことは力である」という標語を掲げ、近代教育が民族運動の基盤であり本質であると主張した。愛国啓蒙運動の影響で大成学校、五山学校、普成学校、進明女学校、淑明女学校など多くの私立学校が所々に建てられた。

[写真:新式教育場面]

 大韓帝国末期に近代学校設立による民族主義教育が大きく起こった理由は、大韓自強会、新民会など政治・社会団体と西北学会、湖南学会、畿湖興学会、嶠南教育会、関東学会など多くの学会の救国教育運動が基礎になった。そしてこの時期にわが国では大学教育が実施されたりした。


国学研究の進展
 国学研究は実学にその源流を探すことができる。実学派の民族意識と近代志向意識は開化思想に連結し、近代的民族主義へ発展した。乙巳条約以後、日帝の侵奪から国権を回復しようとする愛国啓蒙運動は、国史と国語を研究し民族意識を鼓吹しようとする国学運動として現れた。

 まず、国史分野では申采浩、朴殷植などが近代啓蒙史学を成立させた。彼ら啓蒙史学者は『乙支文徳伝』、『姜郁賛伝』、『李舜臣伝』などわが国歴史上外国の侵略に対抗して勝利した戦争英雄の伝記を書いて広く普及させることによって、日本の侵略に直面した国民の士気を鼓舞し、愛国心を呼び起こした。また、『アメリカ独立史』、『越南亡国史』など外国の建国または亡国の歴史を翻訳し紹介することで国民の独立意志と歴史意識を高めようと努力した。とくに、申采浩は『読史新論』を著述し民族主義史学の研究方法を提示した。一方、崔南善は朴殷植とともに朝鮮光文会を作り民族古典を整理、刊行した。

 近代意識と民族意識が成長することによって国語に対する関心も新しくなった。甲午改革以後、官立学校の設立とともに国・漢文混用の教科書が刊行され、国・漢文体または国文体の文章が普及していった。愈吉溶の『西遊見聞』は新しい国・漢文体の普及に大きく貢献し、とくに『独立新聞』と『帝国新聞』はハングルを専用し、そのほかのいろいろな新聞で国文と漢文を混用することによって、伝統的な漢文体から脱皮する画期的な文体の変革をもたらした。

[写真:『西遊見聞』]

 このような文体の変化によって、わが国の言葉の表記法の統一の必要性が高まり、国語研究が大きく前進した。とくに、池錫永、周時經などは国文研究所を設立し、国文の整理と国語の新しい理解体系の確立に大きく貢献した。

 国学運動は政治的に難しい状況のなかで展開されたから、学問的な深さでは一定の限界性を持つほかはなかった。しかし、この運動は時代的要請に応じる愛国啓蒙運動の路線によって、社会一般に近代意識と民族意識を植えつけるのに大きく寄与した。


3 文芸と宗教の新しい傾向
文学の新しい傾向
 近代社会に移行するとともに文学界にも新しい変化が現れた。すなわち、純ハングルで書かれた新小説が登場した。新小説は、その主題がまだ旧小説の型から大きく抜け出せなかったが、言文一致の文章を使用して、封建的な倫理道徳の排撃と迷信打破を主張し、男女平等思想と自主独立意識を鼓吹し啓蒙文学の役割を果たした。当時、新小説の代表的な作晶としては李人稙の『血の涙』、李海朝の『自由鐘』などがある。

 また、崔南善は「海より少年に」という新体詩を発表し、近代詩の形式を新しく開拓した。

[写真:『血の涙』表紙]

 新文学の発達とともに外国文学作品も翻訳された。『聖書』、『天路歴程』のようなキリスト教系統の本と『イソップ話』、『ロビンソン漂流記』などの文学作品が広く読まれた。

 文学活動は、大韓帝国末期の歴史的状況のなかで一部外国文化に対する無分別な輸入と紹介によって植民地文化の基盤を作ってしまったが、一般的に民族意識を高める役割を果たした。


芸術界の変化
 西洋の近代文化が導入されると、とくに芸術界に大きな変化が起こった。まず、音楽部門ではキリスト教が受容され賛美歌が歌われるとともに、西洋の近代音楽が紹介された。また、西洋式楽曲に合わせて歌う新式歌である唱歌が流行したが、独立歌、勧学歌、愛国歌などが有名であった。このなかでも「東海の水と自頭山が乾きすり切れるほど…」ではじまる愛国歌が国民の間に広く愛唱され、民族意識を高めるのに大きく寄与した。

[写真:愛国歌 歌詞]

 演劇分野では、両班社会で賎視されていた民俗仮面劇が民衆の間で盛んに行なわれた。そして、新劇運動も起こり、わが国最初の西洋式劇場である円覚社が建てられ、『銀世界』、『雑岳山』などの作品が公演された。

 一方、美術分野では美術家が職業人としての地位を固めていき、西洋の画風が紹介され、西洋式油絵も描かれはじめた。同じように芸術は各分野にわたる近代的様相をおびて発展していった。


宗教運動の新しい局面
 開港以後、宗教面でも新しい局面が開かれた。長い間迫害を受けてきた天主教が1880年代に宣教の自由を得た後、孤児院を設立運営し、教育と言論をとおして愛国啓蒙運動の隊列に参加したりした。

 宗教運動は改新教の受容と発展で大きく活気をおびていった。改新教の宣教師は西洋技術を普及させ、学校を設立し、わが国近代教育の発展に大きく寄与した。また、改新教はその宣教過程でハングルの普及、迷信の打破、平等思想の伝播、近代文明の紹介など社会・文化面でも多くの業績を残した。

 開港以後、農民を基盤にし民衆宗教として成長した東学は、1890年代に東学農民軍を組織し反封建・反侵略運動を展開することによって、伝統社会を倒すのに大きく寄与した。

 しかし、東学農民運動の失敗で東学は非常に大きな打撃を受けた。その後、大韓帝国の時期に李容九など親日派が一進会を組織し、東学組織を吸収しようとしたが、孫乗煕は東学を天道教に改称し、東学の正統を継承し民族宗教として発展させた。

[写真:『天道協会月報』]
[写真:貞洞教会]

 天道教は『万歳報』という民族新聞を発刊し民族意識を鼓吹しようとした。一方、衛正斥邪運動の中心だった儒教は外勢に抵抗する反侵略的性格は強かったが、時代の流れに逆行するという批判を受けるようになった。それに対し、開明した儒学者は儒教の改革を主張したが、朴殷植の『儒教求新論』がその代表的なものである
(5)

 開化期の仏教は朝鮮王朝の仏教抑圧政策から自由になったが、その後統監府の干渉で日本仏教にひどく隷属させられるようになった。これに対し韓龍雲らは『朝鮮仏教維新論』を掲げ、仏教の自主性回復と近代化のための運動を推進した
(6)

[写真:羅評
[写真:『朝鮮仏教維新論』]

 一方・羅普E呉基鎬などは檀君神話を発展させ大倧教を創始した。大倧教は保守的性格を持っていたが、民族的立場を強調する宗教活動を行ない、とくに間島、沿海州などでの抗日運動と密接な関連を持ちながら成長した。


(5) 朴殷植は『儒教求新論』で国民の知識と権利を啓発する新しい儒教精神を強調し、進取的な教化活動の展開と簡潔で実践的な儒教精神の回復を主張した。

(6) 総督府の宗教干渉が激しくなると同時に、日本の宗教が浸透してきた。それに対して韓龍雲は『朝鮮仏教維新論』で迷信的要素の排撃をとおして仏教の刷新を主張した。


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