Z 近代社会の展開
3 近代の経済と社会
概要
 開港後、外国商品の輸入と米殻の流出で農村経済はもちろん、産業も大きな打撃を受けた。日清戦争以後、日本は貿易独占、利権奪取、金融支配、借款提供、土地略奪などの手段でわが国の経済を蚕食していった。

 これに対抗して、わが民族は防殻令施行、商権守護運動、利権守護運動、国債報償運動など経済的侵略を阻止しようとする運動を行った。そして各種の近代的会社と工場、銀行などを設立し、民族資本による近代的経済体制を築こうとする努力を傾けた。

 一方、社会面でも身分制度と社会意識が大きく変わった。すなわち甲申政変、甲午改革、乙未改革をとおして両班中心の身分制度が法制上完全に廃止された。さらに独立教会の自由民権運動によって社会一般に民主主義思想が伝播され、愛国啓蒙運動によって国民平等の近代意識がしだいに普遍化して近代社会に進展していった。

◇研究課題◇
1 開港以後、日本の経済侵奪政策はどう行なわれたか。
2 日本の経済的侵奪に対抗した経済的救国運動はどう展開されたか。
3 開港以後、近代的経済体制を建設するための努力はどう行なわれたか。
4 近代化過程で身分制度と社会意識はどう変化していったか。

1 開港以後列強による経済侵奪
日本商人の貿易独占
 外国の商品は、開港以前から清をとおして国内に流入したが、釜山、元山、仁川が開港すると、なんの制限もなく輸入された。このような外国製晶は、まだ近代的生産段階に達していなかった国内産業界に深刻な打撃を与えた。

 開港初期には外国商人の活動範囲が開港場から10里以内に制限され、朝鮮商人を媒介にする居留地貿易の形態をとっていた。この時期の日本商人は大部分対馬島と九州地方出身で、没落商人と不平武士層が多かった。彼らは一擢千金をねらう典型的な冒険商人で、日本の領事裁判権、日本貨幣の使用権、日本の輸出人商品の無関税などを認定した不平等条約を基礎に、日本政府の政策的な支援を受けながら略奪的な貿易活動を行なった。

 これら日本商人は主にイギリスの綿織物を上海などから買い入れ朝鮮で販売し、朝鮮から穀物、貴金属などを搬出していく中継貿易で莫大な利益を得た。しかし、壬午軍乱以後には朝鮮に対する清の政治的影響力が強くなり、清国商人が大挙浸透し朝鮮市場で日本商人と熾烈な競争をくり広げた。

[写真:1900年ころの仁川港]

1880年代に日本商人は農村にまで活動舞台を広げ、穀物買占めに力を注いだ。当時、資本主義発達の初期過程にあった日本は、農村の疲弊にともなう食糧不足を解決するために、朝鮮の穀物を大量に輸入していくことによって、朝鮮内の穀物価格の暴騰現象を起こし、都市貧民層と貧農層の暮らしに脅威を与えたそこで穀物の流出を防止するために威鏡道と黄海道では防穀令を出したりした。

一方、外国商人の内陸市場浸透によって、従来輸入商品の内陸販売を担ってきた朝鮮商人は大きな打撃を受け、ソウル商人は撤市で外国商人の浸透に強く反対した。しかし、日本は清日戦争での勝利によって、朝鮮商人の反発および清国商人との競争をすべて退け、朝鮮市場を独占的に支配するようになった。


帝国主義列強の経済侵奪
 清日戦争以後、朝鮮に対する列強の経済的侵奪はよりいっそう強化され、利権奪取、金融支配、惜款捉供などの様相をおびて、帝国主義的経済侵奪段階に入った。列強の利権奪取は俄館播遷の時期から表面化し、ロシアと日本をはじめとする列強は鉄道敷設権、鉱山採掘権、山林伐採権などの利権を奪っていった。

 外国金融機関の朝鮮浸透は開港直後から始まった。日本の銀行は銀行業務のほかに税関業務、貨幣整理業務などを掌握し、日本の経済的侵略の尖兵の役割をした。とくに、日本人財政顧問目賀田は貨幣整理を主導し、国内の中小商工業者に大きな打撃を与えた。

[図:列強の利権侵奪]

 日本の朝鮮に対する惜款提供も、その侵略政策が本格化することによって積極性をおびた。清日戦争以後、朝鮮に対する内政干渉を開始した日本は、朝鮮の財政的な困難に乗じて内政干渉と利権獲得を目的に惜款を提議し実現させた。そして露日戦争以後には、大韓帝国の貨幣整理と施設改善の名目で惜款を強要した。日本の惜款提供政策は大韓帝国を財政的に日本に完全に隷属させようとするものだった。



日本の土地略奪
 開港直後に日本商人は開港場内の一部の土地を惜りて使うことに留まっていた。しかし、彼らは活動範囲が開港場の外に拡大するにつれて、穀物を買い人れるために朝鮮農民に金を貸しその代わりに農地を差し押さえたり、農地を抵当にとる高利貸金業によって農地を奪い取ったりして、次第に土地所有を拡大していった。清日戦争以後、日本が朝鮮に強力な影響力を持つようになると、日本の大資本家が大挙浸透し全州、群山、羅州一帯で大規模な農場を経営するようになった。

[写真:日帝の土地測量]

 日本人による大規模な土地略奪は露日戦争を契機に本格化した。日本は鉄道敷地と軍用地の確保を口実に土地略奪を勝手に行なった。日本は京仁線と京釜線を敷設し、鉄道敷地中の国有地は略奪し、私有地は朝鮮政府が所有者から買い入れて提供するように強要した。そして彼らは軍用地に必要な地域はほとんど制限なく占有し、軍用地を口実に駐屯地付近の土地を大量に略奪したりした。また、日本は朝鮮の荒蕪地の開墾と駅屯土の収容による土地略奪を企てた。国権を奪われたころに日本人が朝鮮で所有した土地は実に1億5000万坪に達した。このように日本が莫大な土地を略奪したのは、朝鮮の植民地化のための基礎作業であった。


2 経済的救国運動の展開
経済的侵奪阻止運動
 外勢の経済的侵奪に対応していろいろな側面の抵抗運動が起こった。その代表的な例は防穀令の施行、ソウル商人の商権守護運動、独立協会の利権守護運動、輔安会などの荒蕪地開墾権反対運動、国債報償運動などをあげることができる。

 第1に、防穀令の施行は日本商人の農村市場の浸透と過剰な穀物搬出を防ぐために下された処置だった。朝鮮で防穀令は凶年になれば地方官の職権で実施することができた。

 開港以後、穀物の日本流出が増えると穀物価格の暴騰現象が現れ、そこに凶年が重なって、威鏡道、黄海道などの地方官は防穀令を下した。

 しかし、これに対して日本側が言いがかりをつけることによって防穀令は外交問題に拡大した。日本側は、防穀令を実施する1ヵ月前に朝鮮側が日本側に通告しなければならないという朝日通商章程の規定を口実に朝鮮側を強圧し、結局防穀令を撤回するようにした。

 さらに、日本商人は防穀令によって損害を被ったとして巨額の賠償金を要求し、結局朝鮮政府は日本に賠償金を支払うことになった。

 第2に、ソウル商人は清国と日本商人の商権侵奪に反対して商権守護運動を展開した。

 開港初期には外国商人の活動範囲が開港場10里内に制限されていたが、1880年代には開港場100里まで拡大され、ソウルをはじめとする朝鮮各地で清国商人と日本商人の商権侵奪競争が激しくなった。ソウルの場合、清国商人は南大門賂と水標橋一帯を中心に、日本商人は忠武賂一帯を中心に、都心に向かって朝鮮の商権を蚕食していった。

 これに反発して数千人のソウル商人は撤市して外国商店のソウル退去を要求し、その後にも撤市したソウル商人と市民数千人が1週間の間、激しく商権守護の示威を行なった。その後、ソウル商人は皇国中央総商会を組織して、外国人の不法な内陸商業活動を厳重に処断することを要求して商権守護運動を展開した。

[図:経済自主権守護運動]

 第3に、独立協会は列強の利権奪取に抵抗して利権守護運動を展開した。すなわち、ロシアが日本の先例にしたがって貯炭所設置のために絶影島の租借を求めたが、独立協会は万民共同会を開催し日本の貯炭所撤去まで主張し、ついにロシアの要求を挫折させた。

[写真:釜山草梁の日本人居留地域(1910)]

 また、韓国の貨幣発行権と国庫出納権など各種の利権獲得を目的にソウルに設置されたロシアの韓露銀行も閉鎖させた。そして軍事基地設置のためにロシアの木浦、甑南浦(鎮南浦)付近の島嶼に対する譲渡要求を強力に阻止させ、フランス、ドイツなどの利権要求も挫折させた。

 第4に、輔安会は日帝の荒蕪地開墾権要求に反対運動を起こし、日帝の土地略奪陰謀を粉砕した。すなわち、日帝が経済的侵奪を強化するとともに日本人に莫大な荒蕪地の開墾権を与えるよう要求したので、国民は積極的な反対運動を展開した。一部民間実業人と官吏は農鉱会社を設立して荒蕪地を自分たちで開墾することを主張した。このとき、輔安会は毎日街頭集会を開き、日帝の侵略的要求を糾弾するとともに挙族的な反対運動を展開した。輔安会は国民的呼応に力づけられ、ついに日帝に荒蕪地開墾権の要求を撤回させた。

 第5に、日帝の惜款捉供による経済的隷属化政策に抵抗して国債報償運動が起こった。日帝は統監府を設置し、彼らの植民地施設を整えるために施設改善などの名目を掲げてわが政府に日本から巨額の惜款を導人させたが、1907年まで導人させた惜款総額は大韓帝国の1年の予算とほぼ同じ1300万ウォンに達した。

 そこで、国民の力で国債を返済し、国権を守ろうとする国債報償運動が大邸からはじめられ全国に広まった。国債報償期成会を中心に各種愛国啓蒙団体と言論機関が募金運動に参加した。募金のために禁煙運動が展開され・婦女子はかんざしと指輪まで出して呼応した。しかし、日帝統監府の悪賢い弾圧でこの挙族的な経済的救国運動は挫折させられてしまった。


近代的商業資本の成長
 朝鮮後期に資本主義的要素が芽生えていたが、まだ資本主義が定着する前に門戸が開放された。門戸開放以後、外国資本主義の侵奪に対する抵抗運動が起こり、一方では資本主義的近代経済を建設しようとする動きもつづいた。

 開港以前に一部形成されていた商業資本は外国資本主義の侵奪の前でいろいろに変貌していった。ソウルの市塵商人は特権商人として伝統的な商業体制を維持しようとしたが、外国商人が都市に浸透してくることによって、彼らとの抗争過程で近代的商人に変貌していった。彼らは皇国中央総商会を組織して、独立協会とともに商権守護運動を展開し、近代的生産工場の経営に投資したりした。

 京江商人は開港後政府の税穀運搬が日本人の蒸気船に独占され、大きな打撃を受けるようになると、彼らも蒸気船を購人し日本商人に対抗しようとしたが、成功するにいたらなかった。開城商人の人参栽培業も日本人の略奪によって侵害された。土着の商人のなかでは客主と旅閣および褓負商は開港以後に大きく活気をおびた。門戸開放初期には外国商人の活動範囲が開港場に限定されていたので、彼らは外国商品を開港場と内陸市場を連結、流通させ利益を得た。しかし、外国商人の内陸商業が許容されることによって、これら商人は大きな打撃を受けたが、資本の蓄積に成功した一部商人は商会社を創立したりした。

 開港以後に外国商人の浸透、貿易拡大過程で一定の商業資本の成長、そして開化思想家による外国会社の制度の紹介などを背景にして多くの会社が設立された。1880年代初期から大同商会、長通会社などの商会社が現れはじめ、甲午改革以前には会社の数が全国各地に40あまりに達した。初期の会社は大部分同業者組合の性格を帯びた商会社だったが、次第に近代的形態の株式会社も設立された。

 1890年代後半期には政府の商工業振興政策に合わせて内国人の企業活動がますます活発になった。門戸開放以後、日本の資本家が朝鮮に入ってきて大規模な運輸会社を設立し、海上と陸上の運輸業を支配していった。これに対して、国内企業家は外国の蒸気船を購入し、彼らに対抗しようとしたし、海運会社、鉄道会社、鉱業会社などを設立して民族資本の土台を固めようと努力した
(4)


(4) 大韓協同郵船会社(1900年)、仁川輪船株式会社(1900年)などの海運会社と利運社(1899年)、通運社(1901年)などの陸運会社などが設立、運営された。また、鉄道敷設権が外国に移っていく状況で、一部企業家は釜下鉄道会社(1898年)、大韓鉄道会社(1899年)など内国人資本による鉄道会社を設立した。鉱山採掘権が外国人に移っていくことに刺激を受け、海西鉄鉱会社(1900年)、遂安金鉱合資会社(1903年)など鉱業会社が設立され、その他各種会社が数多く設立された。


産業資本と金融資本
 開港以後、いろいろ制約された条件のもとでも近代的産業資本が成長していった。開港以前にすでに発達していた鍮器工業と冶鉄工業を継承し、ソウルに朝鮮鍮器商会という合資会社が設立された。そして開港以前に農家副業段階にとどまっていた綿織物の生産は外国産綿織物の輸入で大きな打撃を受けたが、民族資本によって大韓織物工場、鍾路織物社などの織物工場が設立され、発動機を利用した生産活動を展開した。そしてこれと前後して煙草工場、磁器工場なども設立された。

[写真:南大門外風景(1910)]

 一方、開港直後から日本の金融機関が浸透し、日本商人による高利貸業が盛んになるにつれて、これに対応するために自国資本で銀行を設立した。最初に設立された朝鮮銀行は官僚資本が中心になった民間銀行で、国庫出納業務を代行し、地方に支店も置いたが、すぐ閉鎖された。つづいて漢城銀行、天一銀行などの民間銀行が設立されたりした。しかし、これら銀行は貨幣整理事業を契機に没落するか自主性をなくし変質したこともあって、韓国の金融は事実上日帝によって掌握された。

 このように、門戸開放以後、いろいろな方面で展開された民族の近代的経済建設のための運動は、日帝の政治的圧力と経済的侵奪によって挫折させられた。


3 開港以後の社会的変化
平等社会への移行
 門戸開放以後、朝鮮社会は列強の経済的侵奪によって伝統的な体制が大きく揺さぶられ、近代的思想が伝来するとともに新しい社会を建設しようとする動きが現れた。すなわち、一部先覚的な両班、中人出身の人士は開化思想を受容し開化党を組織し、上からの社会改革を推進した。

 甲申政変当時の開化党政府は14カ条の政綱で門閥の廃止、人民平等権の確立、地租法の改正、行政機構の改編などを掲げ近代社会の建設のための大改革を断行しようとしたが、保守勢力の妨害と清の武力介入で失敗してしまった。ところが当時の民衆は開化党の改革意志を理解せず、かえって彼らを敵対視した。

 一方、朝鮮後期の民乱からはじまった民衆の抵抗運動も継続していた。両班中心の身分制度と封建的収取体制に不満を持っていた農民の抵抗運動は、人間平等と社会変革に基礎をおく東学思想と結合して東学農民運動に発展した、、東学農民軍は12カ条の弊政改革案で、貪官汚吏の処断、奴碑文書の焼却などを掲げた。そして執綱所を設置して差別的身分制度を打破し、農民のための土地改革を断行し、新しい社会を作ろうとした。東学農民運動はたとえ失敗に終わったとしても、この運動は両班中心の伝統的身分制社会を崩壊させることに大きく寄与した。

 甲申政変と束学農民運動が保守勢力の妨害と外国の武力によって挫折させられた後、身分差別のない平等な社会を追求しようとする努力は甲午改革と乙未改革に続いた。甲午改革と乙未改革は政治、経済、社会など国政のすべての分野にわたる改革だったが、そのなかで両班中心の身分制度を廃止した社会改革は画期的なことであった。

[写真:開化期の新式裁判光景]

 甲午改革と乙未改革は両班、平民の階級を打破し、自丁、広大など一切の賎民身分を廃止し、公私奴碑制度を廃止し、人身売買を禁止した。また、早婚の禁止、寡婦の再婚許容、拷問と連座法の廃止などで封建的な弊習を打破した。

 甲午改革と乙未改革は、日本の影響下で彼らの侵略のための体制改編の性格があったことを否定できない。しかし、この改革は実際には朝鮮の開化官僚によって甲申政変と東学農民運動の基盤の上で推進され、これによって差別的身分制度が廃止され近代的平等社会の基礎が整えられた。


社会意識の変化
 差別的身分制度が廃止されたからといってすぐに平等社会になるわけではない。そこには社会一般の意識の変化と、より具体的な制度がもうけられなければならない。このための努力は大韓帝国初期の独立協会の民権運動で具体性をおびるようになった。東学農民運動は身分制度打破の意識を明確に見せてくれたが、それが近代的社会意識に直結するものではなかった。

 一方、甲申政変と甲午・乙未改革は近代的社会意識を見せてくれたが、それがただちに民権の確立による民主主義社会を約束することでもなかったし、民衆と遊離している限界性も持っていた。独立協会運動はこのような問題点を発展的に補完して推進された。

 独立協会は近代的知識と国権・民権思想で民衆を啓蒙した。このような民衆啓蒙運動によって民衆の近代的政治・社会意識が高まり、高まった民衆意識を基礎にして近代的民衆運動が起こった。それで独立協会と民衆は国権守護運動と民権保障運動を展開しただけでなく、議会設立運動にまで発展するようになった。このような独立協会の国権・民権運動によって、制限された範囲ではあるが、自由・民権に立脚した民主主義思想と近代的民族主義思想が普及し、民衆に基礎をおく自主的近代改革思想が定着した。

 万民共同会で市塵商人が会長に選出され、官民共同会で賎人出身である白丁が弁士に出た事実は、新しい平等社会の出現を知らせる現象だった。独立協会運動に同調するために店を閉めた商人に巡検が来て門を開くようにいったとき、「今は前と違い官人の無礼な圧制はうけない」と拒絶した商人の言葉は、当時の社会意識の変化と社会体制の変化を端的に見せてくれるものである。

 独立協会運動は大韓帝国末期に愛国啓蒙運動に継承された。愛国啓蒙運動は社会、教育、経済、言論などの各分野で幅広く推進され、国民の近代意識と民族意識を鼓吹した。愛国啓蒙運動の影響で国民の教育熱が高揚し、近代教育が広く普及し、近代知識と近代思想が次第に普遍化し、社会意識の転換をもたらした。

 愛国啓蒙運動は日帝の保護国体制下で積極的な政治闘争に展開されなかったが、民主主義思想を一段階進展させた。19世紀末に独立協会は民主主義の実現と国民国家の建設を目標に活動したが、これを公然と論ずることはできなかった。しかし、20世紀はじめには愛国啓蒙運動家が民主共和政体の優越性と国民国家建設の必要性を公然と主張するほどに社会意識の変化を見せた。

 甲午改革と乙未改革をとおして社会的身分制度が廃止され、大韓帝同時期の独立協会運動と愛国啓蒙運動をとおして近代意識が次第に普遍化され近代社会に進展していった。

白丁朴成春の官民共同会演説文(1898年)
 私は大韓の最も賎しい人物で無知没覚です。しかし、忠君愛国の意昧はだいたい知っています。よって利国便民の道について言えば、官民が心を合わせた後なら可能となると思います。日除けに喩えていえば、一個の長竿で支えるならば役不足だが、多くの長竿を合わせるならば、その力は強固です。願わくば、官民が心を合わせわが皇帝の聖徳に報いて、国運が万々世につづくようにしましょう。

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