Z 近代社会の展開
2 近代意識の成長と民族運動の展開
概要
 開港以後、朝鮮をめぐって清国と日本が侵略競争をくり広げるなかで、政府は富国強兵を目標に開化政策を推進した。このような過程で壬午軍乱と甲申政変が起こった。

 甲申政変後、清と日本の侵略がいっそう激しくなり、支配層の農民に対する収奪が強化されていった。そこで農民は東学の教勢を基盤に反侵略・反封建闘争を展開したが、失敗に終わってしまった。

 一方、清日戦争を契機に親日内閣が成立し、開化官僚たちの主導で甲午改革、乙未改革が推進され、政治・経済・社会などさまざまな面で近代的制度が設けられていった。 

 倭館播遷後大韓帝国が成立したが、ロシアの内政干渉と列強の利権侵害が深刻化した。そのために独立教会は民衆を基盤に自主国権、自由民権、自強改革運動を展開した。これと同時に日帝の侵略が激しくなるなかで、国権守護のために抗日義兵戦争と愛国啓蒙運動が展開された。

◇研究課題◇
1 甲申政変で追求した改革の目標は何か。
2 東学農民運動の歴史的意義は何か。
3 甲午改革と乙未改革は近代化運動でどのような意味を持っているか。
4 独立協会運動が近代社会に及ぼした影響は何か。
5 抗日義兵戦争と愛国啓蒙運動は独立運動史でどのような意義を持っているのか。

1 近代化の推進
開化政策の推進
 かつて朝鮮の一部知識人の間に表面化した通商開化論は、門戸開放と前後して社会全般に及ぶ改革論、すなわち開化思想へと発展した。

 開化思想は内には実学、とくに北学派の思想を発展的に継承し、外には清で進められていた洋務運動と日本で提起されていた文明開化論の影響を受けた思想であった。

 開港後、朝鮮政府は第1次修信使金綺秀と第2次修信使金弘集を日本へ派遣することによって、その発展像と世界情勢の変化を知り、開化の必要性をいっそう感じるようになった。それで政府は、対外関係と近代文物の輸入など、様々な課題を解決するために開化派の人物を政界に起用し、彼らを中心に開化政策を推進していった。

 政府は開化政策を推進するために統理機務衙門という新しい機構を設置し、その下に12司をおき、外交、軍事、産業などの業務を担当させた。軍事制度面では従来の5軍営を武衛営、壮禦営の2営に統合・改編し、新式軍隊の養成のために、別途に別技軍を創設し、日本人教官を採用し近代的軍事訓練をさせて、士官候補生を養成した。

[写真:新式軍隊の訓練光景]

 一方、政府は近代文物を視察させるために日本には紳士遊覧団を、清国へは領選使を派遣した。

 紳士遊覧団は日本にわたって約3カ月間、日本の政府機関はもちろん、各種産業施設を視察した。日本の発展像を直接見て帰ってきた紳士遊覧団一行は、各自担当分野に関する報告書を提出して開化政策の推進を支援した。

 領選使一行は清国の天津で武器製造法と近代的軍事訓練法を学んだ。学生たちの近代技術に対する基本知識と政府の財政的支援が不足し、所期の成果を得ることなく1年間で帰ってきたが、これを契機にソウルに機器廠が設置された。



衛正斥邪運動の展開
 開化政策と外勢の侵略に対する反発は、最初に儒生層によって衛正斥邪運動の形で現れた。衛正斥邪は、正学と正道を守り、邪学と異端を排斥するという意味である。性理学を正統思想と信奉していた朝鮮社会で、衛正とは正学である性理学を守護することであり、斥邪とは性理学以外のすべての宗教と思想を排撃することであった。

 朝鮮後期になって天主教が伝えられると、異質な西欧宗教、西欧文化は排斥の主要対象になった。初期の衛正斥邪運動は李恒老、奇正鎮などによって主導され、とくに李恒老の門人である柳麟錫、崔益鉉などによって継承された。

[人物画:崔益鉉]

 斥邪運動は、1860年代には酉洋の通商要求に対応して西洋との交易に反対する通商反対運動として展開され、つづいて西洋の武力侵略に対抗して斥和主戦論として現れ、大院君の通商修交拒否を強力に支援した。

 そして儒生たちは1870年代の門戸開放と前後して、倭洋一体論、開港不可論を主張して開港反対運動を展閉し、1880咋代には政府の開化政策推進と『朝鮮策略』の流布に反発して嶺南万人疏など開化反対運動を展開した。

 さらに、斥邪運動は1890年代以後には日本の侵略に抵抗する抗日義兵運動に継承された。

 衛正斥邪論者が外国との交易および開化政策に反対した主要な理由は、西洋の工業生産品とわが国の農業生産品を交易すると経済的破滅を招くことと、いったん門戸を開放すると日本をはじめとする列強の絶え間ない侵略を防ぐことができなくなることであった。彼らは政治的、経済的な面から強力な反侵略・反外勢の意志を持っていた。

 しかし、これら儒生層の衛正斥邪運動は反外勢的自主運動としてだけ提示されたのではない。これよりはむしろ朝鮮王朝の専制主義的政治体制、地主中心の封建的経済体制、両班中心の差別的社会体制、そして性理学的唯一思想体制を維持させようとすることに目的をおいていた。それで衛正斥邪運動は当時の政府の開化政策推進に障害となり、それだけ歴史の発展を妨げる逆機能も持っていた。



壬午軍乱の勃発
 開化政策と外勢の侵略に対する反発は、儒生層だけでなく、旧式軍人によっても起こされた。壬午軍乱は閔氏政権が新式軍隊である別技軍を優待して旧式軍隊を差別待遇したことに対する不満から爆発した(1882年)。

 旧式軍人は大院君に援助を求め、政府高官の家を襲撃して破壊する一方、日本人教官を殺し日本公使館を襲撃した。それだけでなく、民衆が加勢するなかで閔氏政権の高官をも殺害した。壬午軍乱は大院君の再執権で鎮定されたように見えたが、これによって朝鮮をめぐる清日両国間の対立を招来した。すなわち、日本は朝鮮内の居留民保護を理由に軍隊派遣の動きを見せ、ために清はすばやく軍隊を朝鮮に派遣して、大院君を軍乱の責任者として清に護送していくことによって、日本の武力介入の口実をなくそうとした。このとき、朝鮮は日本と済物浦条約を締結して賠償金を払い、日本公使館の警備兵の駐屯を認定した。

[絵:壬午軍乱当時日本公使館を襲撃する軍人と住民など]

 清は以後、朝鮮の内政に積極的に千渉した。すなわち、哀世凱などが指揮する軍隊を常駐させ朝鮮軍隊を訓練し、馬建常とメレンドルフを顧問として派遣し、朝鮮の内政と外交問題に深く関与した。また、朝鮮は商民水陸貿易章程の締結によって清国商人の通商特権を許容し、経済的侵略を受けることになった。一方、再び権力を握った閔氏一派は政権を維持するために、親清政策に傾いていった。



開化党の形成と活動
 開化思想の先覚者である朴珪壽の指導を受けた金玉均、朴泳孝、愈吉溶などが開港を前後して次第に一つの政治勢力に成長して開化派を形成した。開化派は1880年代に入って、政界へ進出して政府の開化政策を支援し、改革運動を推進した。ところが開化派には開化政策を推進することについて方法論を異にする二つの流れがあった。

 当時の代表的な政治家というべき金弘集、金允植、魚允中などは、閔氏政権と結託し清の洋務運動を模範として漸進的な改革を迫求したので、彼らを穏健開化派または事大党という。

 これに対して、金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範など少壮派官僚は、清の内政干渉と清に依存する政府の政策に反発して、さらに清の千渉で政府の開化政策が円満に推進されない現実を強く批判した。急進開化派または開化党といわれる彼らは、清の干渉を退け、自主独立を達成し、日本の明治維新を模範にして急進的な改革を推進しようとした。

 金玉均を中心とする開化党要人は、朴珪壽の死後、中人出身で開化思想の先覚者であった劉鴻基の指導を受けた。また彼らは日本の驚くほど発展した姿を直接見て、近代的国政改革の緊急性を切実に感じるようになった。

[写真:金玉均]

 開化党の活動は壬午軍乱を契機に活発になった。壬午軍乱後に朴泳孝が修信使として日本に派遣されたが、このとき金玉均、徐光範なども彼と同行した。彼ら開化党要人は、該博な開化知識と広い海外見聞で高宗の信頼を受け、様々な開化施策を実践していった。たとえば博文局を設置して『漢城旬報』を刊行し、軍事と学術などを学べるように日本に留学生を派遣し、近代的郵便事業のために郵政局を設置した。しかし、開化党は日本の態度が冷淡で開化運動のための惜款導入に失敗し、政治資金の調達が難しくなり、閔氏一派を中心とする親清勢力の牽制がいっそう厳しくなって、開化運動を思ったとおりに進められなかった。



甲申政変とその意義
 壬午軍乱以後、閔氏政権の要職を占めた親清勢力は、彼らに反対する開化党を弾圧した。親清勢力の圧迫で開化政策の推進はもちろん、自分たちの身辺までも危険を感じた開化党要人は、閔氏政権を倒して徹底した開化政策を推進するために非常手段を企てるようになった。

 折しも、清はべトナム問題でフランスと戦争状態に入り、朝鮮に駐屯していた清軍の一部を撤収した。開化党要人はこれを機会に政変を計画した。開化党は日本公使の支援約束を受けて、政変を具体化させていった。

 そうして金玉均ら開化党は、郵政局開局祝賀宴を利用して事大党要人を殺害し、開化党政府を樹立した後、14カ条の政綱を発表した(1884年)。その内容は、清に対する事大関係の廃止、人民平等権の確立、地租法の改革、すべての財政の戸曹管轄、内閣中心政治の実施などであった。開化党要人は近代国家の建設を志向する改革を断行しようとしたのである。しかし、甲申政変は清軍の介入によって三日天下に終わってしまった。

甲申政変時の14カ条政綱
1. 清に捕らえられている興宣大院君をすぐに帰国させるようにし、従来清に対して行なった朝貢の虚礼を廃止する。
2. 門閥を廃止し人民平等の権利を立て、能力によって官吏を任命する。
3. 地租法を改革し、官吏の不正を防ぎ農民を保護し、国家財政を豊かにする。
4. 内侍府をなくし、そのなかで優秀な人材を登用する。
5. 不正をした官吏のなかで、その罪が重い者は処罰する。
6. 各道の還上米を永久に受け取らないようにする。
7. 奎章閣を廃止する。
8. 早急に巡査を置き、盗賊を防止する。
9. 恵商公局を廃止する。
10. 流罪に処せられている者と獄につながれている者は、この情状を参酌して適当に刑を減ずる。
11. 4営を合わせて1営にするが、営中から壮丁を選抜して近衛隊を早急に設置する。
12. すべての財政は戸曹で統轄する。
13. 大臣と参賛は議政府に集まり政令を議決し頒布する。
14. 議政府、6曹外のすべての不必要な機関を廃止する。

 甲申政変後、朝鮮は日本の強要で賠償金支払いと公使館新築費負担などを内容とする漢城条約を締結した。一方、清・日両国は朝鮮から清・日両国軍が撤収すること、そして将来朝鮮に派兵する場合、相手国にあらかじめ知らせることなどを内容とする天津条約を締結した。この条約で日本は清国と同等に朝鮮に対する派兵権を得たのである。

 甲申政変は開化党の勢力基盤が弱かったし、清の武力干渉のため、失敗に終わってしまった。その結果、清国の内政干渉がいっそう強化され、保守勢力の長期執権が可能になり、開化勢力が淘汰され、相当の期間、開化運動の流れが弱まった。このような点で、甲申政変は朝鮮の自主と開化にかえって否定的な影響を及ぼすことになった。

  しかし、甲申政変は歴史的に大きな意昧を持った。政治面では、中国に対する伝統的な外交関係を清算しようとし、専制君主制を立憲君主制に変えようとする政治改革を最初に試み、社会面では門閥を廃止し人民平等権を確立して封建的身分制度を打破しようとしたからである。すなわち、甲申政変は近代国家建設を目標にする最初の政治改革運動であり、歴史発展に合致する民族運動の方向を捉示したわが国の近代化運動の先駆であった。


2 東学農民運動の展開
農民層の動揺
 開港以来、朝鮮をめぐって展開された列強の政治的、経済的、軍事的侵略競争は、甲申政変後にいっそう加熱された。清国と日本の問の侵略的対立はますます激化しただけでなく、ロシアとイギリスまでも朝鮮問題で衝突するようになった(1)。このような状況にもかかわらず、朝鮮の支配層は外勢の侵略に適切な対応策を立てることができないまま、妥協と屈服をくり返し、当面の問題に対する解決能力を見せられなかった。

 さらに、国家財政は開港以後の国際的紛争による賠償金支払いと、近代文物の受容に必要な経費支出などでいっそう窮乏し、支配層の農民に対する圧制と収奪も厳しくなった。

 一方、朝鮮の農村経済は日本の経済的浸透によって疲弊していった。開港以後、朝鮮に最も早く侵略の手をのばした日本の勢力は、政治的な面では壬午軍乱と甲申政変を通じて清国に押され大きく弱まったが、経済的な面ではむしろ清国より強かった。

 日本人商人は最初は清国の商人たちと同様に、主にイギリスの綿製品を安く買って高く売る仲介貿易をしていたが、次第に自国製品に代えて莫大な利益を得た。当時、日本に対する朝鮮の輸出品は米穀が30%以上を占めていたが、日本政府の政治的庇護を受けた日本人商人は朝鮮農民の貧しい状況を利用して、立稲先売や高利貸の方法で穀物を買い入れて暴利を貧った。

 このような日本の経済的侵略に対応して、咸鏡道と黄海道地方では穀物の輸出を禁ずる防穀令を出すが、日本の抗議で賠償金だけを支払い実効をあげられなかった。こうして農村経済はますます疲弊して、農民たちの日本に対する敵愾心も大きくなっていった。

 同時に、資本主義列強の侵奪と支配層の搾取のために農村経済が破綻してしまい、農民層の不安と不満がますます増大していった。そして農村知識人と農民たちの政治・社会意識も急成長し社会変革の欲求も高まった。

 この頃、東学の教勢は三南地方(忠清道、全羅道、慶尚道)を中心に拡大していった。東学の人間平等思想と社会改革思想は新しい社会への変化を渇望する農民の要求に符合し、東学の包接制組織は大規模な農民勢力の糾介を可能にした。そうして従来、散発的に起こっていた民乱形態の農民連動は組織的な農民戦争の形態に変わっていった。



(1) 甲申政変は国際社会に韓半島の位置を新しく認識させた。江華島条約、壬午軍乱とともに甲申政変は、朝鮮をめぐる清国と日本の対立を激化させる契機になった。そのうえロシアの韓半島浸透に対抗してイギリスが巨文島を占領することによって(1885年)、朝鮮をめぐる国際紛争はいっそう加熱した。このような状況で、ドイツ人ブドラー(Budler)は韓半島の永世中立化を朝鮮政府へ建議し、また愈吉溶も列強が保障する韓半島の中立論を構想した。このような中立論は実現できなかったが、当時の朝鮮をめぐる国際情勢の緊迫した事情を立証するものであった。


東学農民軍の蜂起
 東学の教勢が拡張すると、東学教徒は参禮や報恩などで大衆集会を開き、教祖伸冤運動を展開し東学を公認させようとした。とくに報恩での集会は東学教徒と農民が参加した大規模な集会に発展し、貧官汚吏の粛清、日本と西洋勢力の放逐を要求する政治的スローガンを掲げたので、ついに東学中心の宗教運動を農民中心の政治運動に転換させていった。東学農民運動はおよそ4段階に展開した。

 第1期は古阜民乱の時期である。古阜郡守趙秉甲の横暴と搾取に強く反対して、金琫準が1000余人の農民軍をひきいて官衙を襲撃し郡守を追放し衙前らを懲罰にかけた後、穀食を農民たちに分け与え10日あまり後に解散した(1894年)。

 第2期は東学農民運動の絶頂期で、全琫準、金開男などの指導下に東学農民軍が輔国安民と除暴救民の旗幟を掲げた時期である。東学農民軍は古阜と泰仁で蜂起して黄土峴の戦いで官軍を退け、井邑、高敞、威平、長城などを攻略した後、全州を占領した。

 第3期は東学農民軍が政府と全州和約を結び、全羅道一帯に執綱所を設置し、彼らが提示した弊政改革案を実践に移した時期である。全州和約は結ばれたが、政府は東学農民軍の改革要求をきちんと実践しなかった。その前に政府は東学農民軍を武力で鎮圧する能力がなかったので、清に派兵を要請した。そうして清が朝鮮に派兵すると、日本も天津条約を口実に朝鮮に軍隊を送り、とうとう清日戦争が起こってしまった。

 第4期は清日戦争で優勢にたった日本が内政千渉を強化すると、これに対抗して大規模な東学農民軍が再び立ち上がった時期である。東学農民軍は論山に集結し公州の牛金峙で官軍と日本軍を相手に激戦を展開したが、近代武器で武装した日本軍に破れて大きな犠牲を払い、全琫準など指導者が逮捕されることによって、東学農民運動は失敗に終わってしまった。

弊政改革12条
1. 東学徒は政府との怨恨を水に流し、庶政に協力する。
2. 貧官汚吏はその罪状を調査し厳重に処罰する。
3. 横暴な富豪を厳重に処罰する。
4. 不良な儒林と両班などを懲罰する。
5. 奴婢文書を焼却する。
6. 7種の賎人差別を改善し、白丁がかぶる平涼笠は廃止する。
7. 青孀寡婦の再婚を許容する。
8. 名分のない雑税は一切廃止する。
9. 官吏採用には地閥を打破し、人材を登用する。
10. 倭と通ずる者は厳重に処罰する。
11. 公私の債務はもちろん、既存のものを無効にする。
12. 土地は平均して分作する。
(呉知亨永『束学史」)


東学農民運動の性格
 東学農民運動は、内には封建的支配体制に反対し奴婢文書の焼却、土地の平均分作など改革政治を要求し、外には外勢の侵略を退けようとした反封建的・反侵略的民族運動の性格を帯びたものであった。

 東学農民運動は反封建的性格と反侵略的性格のために、当時の執権勢力と日本侵略勢力の弾圧を同時に受けて失敗してしまったが、その影響は非常に大きかった。反封建的性格は甲午改革にも一定の影響を及ぼし、伝統秩序の崩壊を促進し、反侵略的性格は東学農民軍の残余勢力が義兵運動に加担することによって救国武装闘争を活性化させた。

 しかし、東学農民運動は近代社会を建設するための具体的な方案をできない限界性を持っており、近代武器で武装した日本侵略軍を退けるには力不足だった。


3 近代的改革の推進
甲午改革と乙未改革
 朝鮮は甲申政変の失敗で近代的な改革を主体的に実施する機会を失っていたが、開港以来累積した様々な矛盾を解決するためには大々的な改革が必要だった。そうして改革を要求する東学農民運動が起こると国王は大々的な改革を約束した。そして甲申政変に加担しなかった穏健開化派も国政全般に及ぶ改革の必要性を切実に感じていたので、国王の命を受けて校正庁を設置し、自主的に改革を推進しようとした(2)

 一方、東学農民運動を契機に清日両国軍が朝鮮に入ってきたが、すでに政府と東学農民軍の間には全州和約が成立し外国軍隊の朝鮮駐屯に対する名分はなくなっていた。

 このような状況で、日本は朝鮮での内乱を予防するためには朝鮮の内政改革が必要であると主張した。しかし、その内面的な意図は、日本軍の朝鮮駐屯の名分を見つけ、すすんで清との戦争の口実を作り、清の勢力を朝鮮から追い出した後、朝鮮に対する内政干渉をとおして経済的利権を奪取するとともに、侵略の基盤を固めることであった。したがって、日本は朝鮮に対して内政改革を要請したが、朝鮮は日本軍が先に撤収することを要求した。日本側の内政改革強要と朝鮮側の自主的改革の主張が強く対立するなかで、日本は軍隊を動員して景福官を占領した。このような日本の脅威のなかで閔氏政権が崩壊し、大院君を摂政とする第1次金弘集内閣が成立した。そして改革を推進するための軍国機務処が設置された。

 軍国機務処は超政府的な会議機関として改革を主導した。これが第1次改革で、いわゆる甲午改革である(1894年)。当時、日本は利権侵奪に力を注ぎ、改革内容に対しては傍観的な姿勢をとっていたので、改革は事実上軍国機務処の主導のもとで推進された。ところが日本は清日戦争で優勢になると、朝鮮に対して積極的な千渉政策をとった。このとき、甲申政変の主動者として亡命していた朴泳孝と徐光範が帰国して改革に参与した。

 第2次改革は軍国機務処が廃止され、金弘集・朴泳孝連立内閣が成立することによって推進された。高宗は文武百官を従えて宗廟に出かけ独立誓告文を捧げ、洪範14条を頒布した。独立誓告文は国王が国の自主独立を宣布した一種の独立宣言文であり、洪範14条は自主権、行政、財政、教育、官吏任用、民権保障の内容を規定した国政改革の基本綱領であった。第2次改革は、当時日本が三国干渉のために勢力が弱まっている過程であったので、事実上朝鮮の内閣大臣、とくに内務大臣朴泳孝の主導で断行された。しかし、朴泳孝が閔氏一派によって排除されることによって改革は中断した。

 朴泳孝が失脚した後、穏健改革派と親露派の連立内閣である第3次金弘集内閣が成立した。このとき、明成皇后は親露派と連結して日本の侵略勢力を排除しようとし、このために日本侵略者らは明成皇后を弑殺する乙未事変を起こした(1895年)。このようななかで、第3次改革が推進され、断髪令が出されると、儒生は「私の首を切っても私の髪の毛を切ることはできない」と強硬な姿勢で反発した。ついに明成皇后の弑殺に鬱憤を押さえきれなくなった儒生層と農民が断髪令を契機にして各地で義兵を起こし、このような渦中で親露派は国王をロシア公使館へ隠した。この俄館播遷によって改革運動は中断した。




(2) 日本政府が朝鮮に内政改革案を提出したとき、朝鮮政府は日本の軍隊の撤収をまず問題にしたが、1894年6月王命で校正庁を設置し、堂上15人と郎庁2人を任命し自主的に改革を実施しようとした。


改革の内容と意味
 甲午改革と乙未改革をとおして政治・経済・社会の各分野にわたる近代的改革がなされた。

 政治面では、開国年号を使用し、王室と政府の事務を分離し、政治の実権を相当部分内閣が持つことによって、国王の専制権を制限した。また、科挙制度を廃止し、身分の区別なく人材を登用する新しい官吏任用制度を実施した。そして司法権を行政権から分離し、逮捕と拘禁、裁判の業務は警察官と司法官だけが担当するようにした。一方、地方官の権限を大幅に縮小し、司法権と軍事権を除外し、行政権だけを行使するようにした。

 経済面では、財政に関するすべての事務を度支部にまかせ財政を一元化し、王室と政府の財政を分離し国家財政を整備することに力点をおいた。また、銀本位貨幣制度の採択、租税の金納制の施行、度量衡の改訂、統一などを行なった。

洪範14条
1. 清に依存する考えを棄てて自主独立の基礎を作る。
2. 王室典範を制定し王位継承の法則と宗親と外戚との区別を明確にする。
3. 君主は各大臣と相談し政事を行ない、宗室、外戚の内政千渉を許さない。
4. 王室事務と国政事務を分けてたがいに混同しない。
5. 議政府及び各衙門の職務、権限を明らかに規定する。
6. 納税は法で定め、むやみに税金を徴収しない。
7. 租税の徴収と経費支出はすべて度支衙門の管轄に属する。
8. 王室の経費は率先して節約し、これによって各衡門と地方官の模範になるようにする。
9. 王室と官府の1年の会計を予定して財政の基礎を確立する。
10. 地方制度を改正し地方官吏の職権を制限する。
11. 聡明な若者を派遣して外国の学術、技芸を研修させる。
12. 将校を教育し、徴兵を実施し、軍制の根本を確立する。
13. 民法、刑法を制定し、人民の生命と財産を保全する。
14. 門閥を問わず人材登用の道を広げる。

 社会面では、身分制を撤廃し両班と平民の階級を打破し、公私の奴碑制度を廃止して、人身売買行為を禁止した。また、早婚禁止、寡婦再婚許容、拷問と連座法の廃止などを実施し封建的な弊習を打破した。

 軍事面での改革はなおざりだったが、これは日本が朝鮮の軍事力強化や軍制改革をいやがったためであった。改革過程で訓練隊の創設、拡充と士官養成所の設置などが一時試導されたが、大きな成果を収められなかった。

 甲午・乙未改革は概して日本帝国主義の勢力によって強要された面もあったが、封建的な伝統秩序を打破する近代的改革だったことには間違いない。さらに、朝鮮の開化人士と東学農民層の改革意志が反映された民族の内部から生じた近代化の努力でもあった
(3)


(3) 甲午改革、乙未改革は日本の強要によって着手され、この結果も日本の朝鮮侵略を容易にする体制改編にすぎなかったという改革の他律性のために否定的に評価されることもある。しかし、日本の改革強要がある以前に、すでに甲申政変や東学農民運動によって改革運動が起こっており、甲午改革、乙未改革が事実上朝鮮の開化派官僚によって推進され、改革の結果も近代化過程において非常に垂要な政治的、経済的、社会的な一大改革であった点で、制限的ではあるがその改革の自律性が認定され、改革の方向が肯定的に評価されている。


4 独立協会活動と大韓帝国
独立協会の創立と民衆啓蒙
 俄館播遷によって金弘集の親日内閣が倒れ、親露派政権が成立すると、日本の侵略勢力はいったん牽制された。しかし、国王がロシア公使館に留まっている間に、ロシアをはじめとする列強の利権侵奪はますます激しくなり、執権層は親露的な性向を露わにした。このようなときに甲申政変の主導者としてアメリカヘ亡命していた徐載弼が帰国した。彼は自由民主主義的改革思想を民衆に普及し、国民の力で完全なる自主独立国家を樹立しようと、『独立新聞』を創刊し、独立協会を創立した(1896年)。

 独立協会は徐載弼をはじめ、尹致昊、李商在、南宮檍など近代思想と改革思想を持った進歩的知識人によって指導部が形成され、資本主義列強の侵奪と保守的支配層の圧制に不満を持った都市市民層が主要な構成員となった。そして学生、労働者、女性、賎民など広範な社会階層の支持を受けた。独立協会の指導層は、甲申政変と甲午改革のような改革運動が民衆の支持基盤がなくて失敗に終わった事実を教訓として、優先的に民衆を覚醒するための運動を展開した。

[写真:独立新聞と徐載弼]

 彼らは最初の事業として、国民から献金を集め、迎恩門の場所に自主独立の象徴である独立門を建て、慕華館を独立館に改修するなど国民の自主独立意識を鼓吹した。また、講演会と討論会の開催、新聞と雑誌の発刊などをとおして近代的知識と国権・民権思想を鼓吹し、民衆を教え導いた。このような啓蒙運動によって次第に国民の近代的政治意識が向上し、市民の呼応と参加度が高まり独立協会は民衆のなかに根を下していった。

 その後、独立協会と『独立新聞』が政府の外勢依存的な姿勢を批判すると、独立協会に参加していた官僚は大部分離脱したが、独立協会はかえって民衆に基盤を置社会団体に発展していった。


国権・民権運動の展開
この頃、ロシアの侵略的干渉はつづいており、列強の利権侵奪はますます激しくなっていった。そこで独立協会会員はわが国最初の近代的民衆大会である万民共同会を開いた(1898年)。1万余人の市民、学生が集まり、鍾路広場で開かれた万民共同会ではロシアの侵略政策を糾弾し、大韓の自主独立権を守ろうという内容の決議案を採択し、これを政府に建議した。以後、独立協会は随時万民共同会を開き、外国の内政干渉と利権要求および土地租借要求などに対抗して国権と国益を守護しようとする自主国権運動を展開していった。

 自主国権運動が展開される過程で、民衆の力が増大し民権意識が高揚し自由民権運動も展開された。独立協会は国民の身体の自由、財産権、言論・出版・集会・結社の自由などを確保しようとする運動を展開し、相当な成果を収めた。さらに、民意を国政に反映させ、近代改革を推進しようとする国民参政権運動も展開した。

 その後、独立協会は全国各地に支会を設置し、4000余人の会員を持つ民衆の代表機関に成長し、議会設立による国民参政運動と国政改革運動を本格的に展開した。独立協会はこのような活動をとおして保守的内閣を倒し、朴定陽の進歩的内閣を樹立することに成功した。

 そして万民共同会に政府大臣を同席させ官民共同会を開き、国権守護と民権保障および政治改革を内容とする献議6条を決議し、国王の裁可を得た。さらに、政府と協議を開き、官選委員と民選委員を同じ数にする議会式中枢院官制を頒布させ、わが国の歴史上最初の国会が設立される段階にまで至った。

[絵:万民共同会(民族記録画)]

 しかし保守勢力は、高宗に独立協会が王政を廃止し共和政を実施しようとしていると謀略をめぐらし、朴定陽内閣を倒し独立協会も解散させてしまった。ためにソウル市民は万民共同会を開き、50余日間の示威籠城をとおして独立協会の復活、改革派内閣の樹立、議会式中枢院の設置などを要求するとともに激しい闘争を展開した。しかし政府は皇国協会を利用して万民共同会を弾圧し、結局は兵力を動員して民衆の政治活動を封鎖した。


官民共同会の献議6条
1. 外国人に依存しないこと。
2. 外国との利権に関する契約と条約は各大臣と中枢院議長が合同捺印して施行すること。
3. 国家財政は度支部で専管し、予算と決算を国民に公布すること。
4. 重大犯罪を公判に付すが、被告の人権を尊重すること。
5. 勅任官を任命するときには政府にこの意義をただし衆議に従うこと。
6. 決められた規定を実践すること。


独立協会活動の意義
 独立協会の活動過程で現れた思想は自主国権思想、自由民権思想、自強改革思想に集約される。

 第1、自主国権思想は自主独立国家を建設しようとする近代的民族主義思想であった。独立協会は、列強の侵略から自主独立する道は、外国に依存しないで自らの力で国権を守ることであると信じた。そして実際に民衆を背景に政府に圧力を加え、列強の内政干渉と利権要求を拒否するなどの自主国権運動を展開した。

 第2、自由民権思想は国民の自由と平等および国民主権の確立をとおして近代国民国家を建設しようとする民主主義思想であった。独立協会は民衆に民権意識を鼓吹し、自由民権の民主主義理念を社会一般に伝播した。

 第3、自強改革思想は自主的な近代改革をとおして国力を培養しようとする近代化思想であった。独立協会は過去の開化勢力とは違い、民衆を開化運動と結合させ近代的民衆運動を起こし、民衆による自主的な近代化運動を展開した。



大韓帝国
 俄館播遷1年目である1897年に高宗は内外の世論に助けられてロシア公使館から慶運宮に還宮し、国号を大韓帝国、元号を光武と変えた後、王を皇帝と称し自主国家であることを内外に宣布した。

 大韓帝国は、内には外勢の干渉を防ぎ自主独立の近代国家を建設する国民的な自覚と、外には朝鮮からロシアの独占勢力を牽制しようとする国際的な世論の支援を受けて成立した。

[写真:皇穹宇(ソウル中区)]

 大韓帝国の執権層は甲午・乙未改革の急進性を批判し、漸進的な改革を迫求した。光武政権の施政方向は、旧制度を根本にして新しい制度を参酌するという旧本新参にあった。

 これは多分に復古主義的性格を帯びたものだった。光武政権の復古的政策は政治面で専制王権の強化として現れた。それゆえに光武政権は立憲君主制と議会設立を主張する独立協会の政治改革運動を弾圧した。

 そして光武政権が1899年に一種の憲法として制定した大韓国国制は、大韓帝国が専制政治国家であり、皇帝権の無限であることを強調し、統帥権、立法権、行政権、司法権、外交権などをすべて皇帝の大権に規定し専制君主体制をいっそう強化した。

 一方、光武政権は経済面で量田事業と商工業振興策を推進した。量田事業は過去の累積した弊害の一つである田政を改革し民生を安定させ、国家財政を確保するためのものだった。この量田作業で近代的土地所有権制度といえる地契が発給された。

 政府の商工業振興策が実施され、繊維、鉄道、運輸、鉱業、金融分野で近代的な工場と会社が設立された。これによって実業教育が強調され、近代産業技術を習得するために外国に留学生が派遣されて、各種の実業学校と技術教育機関も設立された。そして交通、通信、電気、医療など各分野にわたる近代的施設が拡充されていった。

 このように、光武政権は経済、教育、施設面で国力増強をはかったが、執権層の保守的性向と列強の干渉のために大きな成果をあげられなかった。

大韓国国制(要約)
第1条 大韓国は世界万国が公認した自主独立帝国である。
第2条 大韓国の政治は万世不変の専制政治である。
第3条 大韓国大皇帝は無限の君権を享有する。
第5条 大韓国大皇帝は陸・海軍を統率する。
第6条 大韓国大皇帝は法律を制定し、その頒布と執行を命じ、大赦、特赦、減刑、復権などを命ずる。
第7条 大韓国大皇帝は行政各部の官制を定め、行政上必要な勅令を発する。
第9条 大韓国大皇帝は各条約締結国家に使臣を派遣し、宣戦、講和および諸般の条約を締結する。

間島と独島
 19世紀後半以後、韓民族は間島地方へ移住して、そこの荒蕪地を開拓するなど生活の基盤を確保した。すると清は間島開墾事業を口実に韓民族の撤収を要求し、ここに間島帰属問題が起こった。政府では白頭山定界碑の土門江が松花江の上流なので間島がわが領土であることを主張し、間島に官吏を派遣し管理していた。

 総督府が設置された後にも日帝は間島に統監府の派出所をおきこれを管轄した。しかし、日帝は清と間島協約を締結し(1909年)、満州の安奉線鉄道敷設権を得た代価として間島を清の領土と認定した。日帝がこのようにわが国の外交権を掌握して自分勝手に協約を締結したことは乙巳条約に根拠をおいているのだが、乙巳条約が高宗皇帝によって無効であると宣言された以上、この条約を根拠に結んだ間島協約も無効である。

 これだけではなく、日帝は露日戦争中に、独島を自分の領土に編入する不法行為を犯したりした。


5 抗日義兵戦争の展開
抗日義兵運動の開始
 清日戦争以後、韓半島の支配をめぐって鋭い対立を見せた日本とロシアはついに露日戦争を起こした。これと前後して日帝の侵略が本格化し大韓帝国は大きな試練を受けた。これに対していろいろな方面で民族的抵杭が起こった。日帝の侵略に対する最も積極的な民族的抵抗は義兵戦争であった。

 最初の抗日義兵は日本侵略者によって恣意的に行なわれた乙未事変と親日内閣によって強行された断髪令を契機に全国各地で起こった。そのなかで、柳麟錫、李昭応、許蔿などの活動がめだっていた。

 いわゆる乙未義兵は衛正斥邪思想を持った儒生が主導し、一般農民と東学農民軍の残存勢力が加担した。彼らは全国各地で軍事活動を拡大し、忠州をはじめとする地方の主要都市を攻撃し、親日官吏と日本人を処断した。

 しかし、乙未義兵の闘争は、俄館播遷を契機に親日政権が倒れるとともに断髪令が撤回され、国王の解散勧告詔勅が出ることによって、大部分終息した。このとき、解散した農民の一部が活貧党を組織して反封建・反侵略運動をつづけて展開した。



義兵抗戦の拡大
 露日戦争を契機に、日帝は侵略を積極化するとともに一方的に乙巳条約の締結を発表した。これに対して社会の各界各層では日帝の侵略を球団し、条約の廃棄を主張する運動が至るところで激しく起こった。

[写真:韓末の義兵将が大切に保存していた太極旗]

 趙秉世、李相咼、安炳瓚などは乙巳条約に署名した大臣の処罰を要求する上疏運動を始め、閔泳煥などは外交権喪失に鬱憤を我慢できず自決によって乙巳条約に強く抗議した。羅普A呉基鏑などは五賊暗殺団を組織して五賊の家に放火し、一進会を襲撃するなど売国奴を処断しようとした。また、張志淵のように激烈な抗日言論を展開し、日帝を糾弾し民族的抗戦を訴えた。

 乙巳条約を契機に国家の存立が危機に瀕すると、再び蜂起した義兵は条約の廃棄と親日内閣の打倒を掲げて激しい武装抗戦を展開した。まず、閔宗植は乙巳条約が発表された後に官職を捨てて義兵を起こし洪州城を占領し日本軍と対立した。そして崔益鉉は義兵をひきいて淳昌に入城し官軍と対峙したとき、同族同士殺し合うことはできないと戦いを中断して捕虜になったが、結局日本軍によって対馬島へ連行され殉死した。

 一方、平民出身の義兵将申乙石は義兵を集め寧海へ入城し、官軍の武器を奪取した後、平海、蔚珍などで活動したが、義兵の数は一時3000人を超えた。従来の義兵将はだいたい儒生だったが、このときからは平民出身の義兵将の活動がめだち、義兵運動の新しい様相をみせるようになった。



義兵戦争の展開
 高宗皇帝の強制退位と軍隊解散を契機に、義兵の救国運動はその規模と性格面で義兵戦争に発展していった(1907年)。このときの義兵を丁未義兵という。

 侍衛隊大隊長朴昇煥の自決を始発点にして、日本軍と市街戦を展開した解散軍人が義兵に合流することによって義兵の組織と火力が強化された。

[写真:大韓帝国の侍衛隊]

 この時期の義兵組織と活動は全国各地に広がっただけでなく、豆満江を越えて間島と沿海州にまで及んだ。

 一方、全国の義兵部隊がソウル進攻のために連合戦線を形成したこともあった。李麟栄と許蔿が指揮する1万余人の義兵連合部隊は京畿道楊州へ集結し、その先発隊がソウル近郊まで進撃したが、日本軍の反撃が強くて、それ以上前進できずに後退した。このとき、義兵はソウル駐在各国領事館に義兵を国際法上の交戦団体として承認してくれることを要求する書信を発送して、自ら独立軍であることを主張した。そして洪範圖と李範允が指揮する間島と沿海州一帯の義兵部隊が国内進攻作戦を計画し、義兵として活躍していた安重根は満州ハルピン駅で韓国侵略の元凶である伊藤博文を処断した(1909年)。

[写真:安重根]

 このように活発に展開された義兵戦争は、その後日本軍の残忍な、いわゆる南韓大討伐作戦を契機に大きく萎縮した。しかし、多くの義兵は鴨緑江と豆満江を越えて間島と沿海州に移って独立軍になり、継続して日帝に強力な抗戦を展開し、一部の義兵は国内に残り山岳地帯で遊撃戦を展開した。



抗日義兵戦争の意義
 義兵戦争は全国を活動範囲にして、広範な社会階層を網羅したが、優勢な武器を保有した強力な日本の正規軍を制圧することはできなかった。そして最初は封建的支配秩序の維持に固執する両班儒生層の指導路線によって結束を強化できなかった。乙巳条約が強要された後では、外交権が失われ国際的に孤立したために国際的支援も期待できなかった。そうして義兵戦争は所期の成果を収めることができなかった。

 しかし、義兵戦争は執権層の腐敗と無能、そして外勢の侵略で国家と民族が危機におかれているときに起こった救国運動の代表的な形態であり、民族の強靱な抵抗精神を表出させたという点で重要な意義を持っている。さらに義兵戦争は国権回復のための武装闘争を主導し、日帝の植民地体制下では抗日武装独立闘争の基盤を作ったことによって、抗日民族運動史の大きな流れを作った。それだけでなく、義兵戦争は20世紀のはじめ、帝国主義列強の弱小国侵略が激しかった時期に、日帝の侵略に対抗して武装闘争を展開したという点で、世界弱小民族の独立運動史にも大きな意義を持つものである。

[図:義兵の蜂起]


6 愛国啓蒙運動の展開
愛国啓蒙団体の活動
 独立協会が解体された後、保守政権の圧制体制がいっそう強化され、列強とくに日本の利権侵奪がさらに激化されていった時期にも、開化自強系列の多くの愛国団体が設立され親日団体である一進会に対抗しながら救国民族運動を展開した。

 すなわち、輔安会は土地略奪を目的とした日本の荒蕪地開墾権要求に反対運動を展開し、これを阻止することに成功したが、日本側の圧力で解散させられた。憲政研究会は国民の政治意識の鼓吹と立憲政体の樹立を目的に設立され、一進会の反民族的な行為を糾弾したが解散させられてしまった。

 1905年以後、開化自強系列の民族運動は国権回復のための実力養成運動、すなわち愛国啓蒙運動として展開された。このとき愛国啓蒙運動を主導した全国的規模の代表的な団体は大韓自強会と大韓協会、そして新民会だった。

 大韓自強会は独立協会運動の流れを受けた憲政研究会を母体にし、社会団体と言論機関を主軸にして創立された。大韓自強会は教育と産業を振興させ独立の基礎を作ることを目的にして、月報の刊行と演説会の開催などをとおして国権回復のための実力養成運動を展開した。開化自強系列の民族運動は、乙巳条約を契機に国政改革のための憲政研究からはじめて国権回復のための自強運動に転換したものである。

[写真:『大韓自強会月報』]

 大韓自強会は全国各地に支会を設置し、1500余人の会員を確保するにいたったが、日帝がハーグ特使派遣を口実に高宗皇帝の譲位を強要すると、激しい反対運動を主導したが強制的に解体された。

 大韓協会は大韓自強会を継承して教育の普及、産業の開発、民権の伸長、行政の改善などを綱領に掲げ、実力養成運動を展開した。しかし、日本の韓国支配権がいっそう強化されることによって、大韓協会の国権回復に対する意志が大きく弱まるとともに、国権回復運動の大きな流れは新民会に受け継がれた。

 新民会は社会各界各層の人士を網羅して組織された秘密結社であった。安昌浩、梁起鐸などを指導部にする新民会は、国権の回復と共和政体の国民国家建設を究極的な目標にして、表面的には文化的、経済的実力養成運動を展開しながら、内面的には独立軍基地の建設による軍事的実力養成を企図した。しかし新民会は日帝が程造した105人事件によってその組織が瓦解してしまった。

[写真:安昌浩]


教育運動と言論活動
 社会・政治団体と緊密な関連を持って、乙巳条約以後に西北学会、畿湖興学会など教育団体が設立された。これら学会は教育振興による郷土の発展と民族の実力養成をとおして国権回復に目標を置き、民衆の啓蒙と新教育の普及に努力した。これら学会は名称は教育団体であるが、実際は国権回復を目的に政治と教育を結合させた救国運動団体だった。

 一方、『皇城新聞』、『大韓毎日申報』など言論機関も国民啓蒙と愛国心鼓吹に大きな役割を担当し、本格化した日帝の国権侵奪に強く抵抗した。とくに『皇城新聞』は主筆張志淵が乙巳条約に憤慨して書いた論説「是日也放聲大哭」で有名である。また、この時期には経済的救国運動として国債報償運動も展開されたが、ここには『大韓毎日申報』などの言論機関が積極的に参加した。

[写真:『皇城新聞』の「是日也放馨大哭」]


愛国啓蒙運動の意義
 愛国啓蒙運動は民衆啓蒙、近代教育、産業開発、国学研究、言論活動、独立軍基地建設などをとおして民族の実力を養成し国権を回復しようとする運動で、わが民族の独立運動史に大きな意昧を持っている。

 第1に、愛国啓蒙運動は民族独立運動の理念を提示した。すなわち、国権回復と同時に近代的国民国家の建設を目標に掲げ、当時の民族的課題に忠実で、近代史の発展方向に合致する民族運動の理念を提示したのである。

 第2に、愛国啓蒙運動は民族独立運動の戦略を提示した。すなわち、新民会は国内での文化的、経済的実力養成とともに、国外での独立軍基地建設による軍事力養成を当面の目標にした。これは、適切な機会に日帝から独立を勝ち取ろうとする独立戦争論にもとづくものである。

 第3に、愛国啓蒙運動は長期的な民族独立運動の基盤を築き上げた。すなわち、近代的民族教育を勃興させ、独立運動の人材を養成し、近代的民族産業を振興させ、独立運動の経済的土台を準備しようとし、間島と沿海州に独立軍基地を建設し、抗日武装闘争の基礎を築き上げた。

 しかし、愛国啓蒙運動は日帝によって政治的、軍事的に隷属させられた状態で展開されたために、抗日闘争の成果面で限界性を持たざるを得なかった。



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