Z 近代社会の展開
[写真:独立門]
単元の概観
 朝鮮社会は、内部から芽生えはじめた近代的な要素を十分に発展させないまま開港した。これ以後列強の侵略が相次いで、清日戦争、露日戦争を挑発した日帝の植民地支配下に入ることになった。

 しかし、わが民族は帝国主義列強の侵略に対抗して衛正斥邪運動、東学農民運動、抗日義兵戦争などを展開し、一方では甲申政変、甲午改革、独立協会活動、愛国啓蒙運動などをとおして近代国家の建設のために努力した。

 開港以後経済面では列強の経済的侵奪に対抗して近代的経済建設のための努力がつづけられ、社会面では両班中心の身分制度が廃止され、近代意識も普遍化していった。また、科学技術と文明施設が受容され、教育運動と国学運動、文芸活動と宗教活動が近代的、民族主義的性格を帯びて展開していった。


1 近代社会への進展
概要
 19世紀中葉に至って、朝鮮の伝統社会はそのまま維持することができない状況におかれていた。内部には腐敗、無能な両班支配体制に反対する民衆勢力が成長しており、外部には日本と西欧列強の侵略勢力が押し寄せていた。

 このようなときに権力を握った興宣大院君は専制王権を強化し、通商修好を拒否して当面する危機を克服しようとしたが、彼が退いた後ついに門戸が開放された。

 しかし、門戸の開放は列強の侵略をともなうことになったので、朝鮮は結局これら列強の侵略競争の舞台になった。

◇研究課題◇
1 帝国主義の成立の背景は何か。
2 興宣大院君が権力をにぎった頃の国内外情勢はどうだったか。
3 興宣大院君の対内外政策はどのような方向に展開したか。
4 開港は歴史的にどのような意義を持っているか。

1 帝国主義時代の世界
帝国主義時代
 19世紀末から20世紀のはじめにかけて帝国主義時代か展開し、この時期に帝国主義諸列強は後進地域や弱小国家を支配するためにあらそって侵略を行なった。

 イギリスではじまった産業革命は19世紀中葉を前後してヨーロッパの主要国家とアメリカなどに拡大して、19世紀後半には資本主義が高度に発達するようになった。独占資本主義、金融資本主義に到達した先進資本主義諸国家は、国内に蓄積された剰余資本の投資市場を確保するために新しい植民地を必要とするようになった。また、イタリアの統一とドイツの統一で高まった民族主義は、以後排他的で侵略的な性格の民族主義に変質した。

 このように資本主義の顕著な発展と強烈な民族主義を基礎に、ヨーロッパ列強をはじめとする強大国は、1870年代から後進地域を侵略して植民地にした。ここに帝国主義時代が展開した。

 代表的な帝国主義諸国家はイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカ、日本などで、これら帝国主義列強間の対立によって第1次世界大戦か起こった。(1914年)。


帝国主義列強の侵略
 帝国主義列強の侵略対象になった地域はアフリカ、アジア、太平洋などであった。帝国主義時代のアフリカの大部分はヨーロッパ列強の植民地に転落し、一部国家を除いたアジアの大部分の地域も帝国主義列強の植民地または半植民地になった。

 アフリカでイギリスは縦断政策を実施し、南側のケープ植民地と北側のエジプトを植民地とし、連結しようと努力した。フランスは横断政策を実施し、アルジェリアとマダガスカル島を連結して植民地を拡大しようと試みた。このほかドイツ、イタリア、ベルギーなどもアフリカの植民地化競争に飛ひ込んだ。

帝国主義列強の侵略
[図表:帝国主義列強の侵略]

 したがって20世紀はじめにはリベリアとエチオピアを除いたすべてのアフリカ地域がヨーロッパ列強に占領されてしまった。

 アジアでイギリスはインドとその周辺一帯を植民地として支配し、フランスはインドシナ半島を占領した。また、オランダはインドネシアを、アメリカはフィリピンを植民地として支配した。18世紀まで強力な国家だった中国も19世紀末には西洋列強と日本の侵略で半植民地状態に転落してしまった。西アジアー帯でもオスマン帝国が弱体化していくなかで帝国主義列強の勢力が浸透した。

 列強の領土分割は太平洋にまでおよび、20世紀はじめまでに太平洋の大多数の島はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどによって分割占領された。


2 国際関係の拡大
興宣大院君の政治
興宣大院君
[写真:興宣大院君]
 哲宗のあとを継いで高宗が幼くして王位に登り、国王の生父である興宣君李是応が大院君になって政治的実権を握ることになった。

 当時、内部では勢道政治による国政の混乱と三政の紊乱による民生の破綻で民乱が頻繁に起こり、外部では西洋勢力が中国と日本の門戸を開放して朝鮮に押し寄せる情勢だった。したがって彼は対内的には国家の秩序を正すために王権強化政策を推進し、対外的には外勢の浸透を退けるために諸外国の通商修好要求を拒否した。

 大院君は宮廷内で、何よりも外戚の勢道で権勢を享受してきた安東金氏一族を政界から追い出し、党派と身分ではなく能力によって人材を登用した。このような果敢な人事政策は朋党政治と勢道政治の弊害を除去するとともに、彼の政治的基盤を確保し、究極的には専制王権を強化しようとしたのであった。

 王権強化のための大院君の努力は政治機構の再整備に現れた。彼は文武高官の合議体で軍事と政務を総轄してきた備辺司を縮小、格下げして、議政府と三軍府の機能を復活させることによって政治と軍事の業務を分離させた。また、統治体制の整備のために『大典会通』と『六典條例』を編纂するなど各種の法典を整備した。

景福宮勤政殿
[写真:景福宮勤政殿]

 そして大院君は紊乱した三政を正して民生を安定させようとした。彼は土地台帳から落ちていた土地を捜し出し、地方官と土豪の土地兼併を禁止し、田政を立て直そうとした。また、両班の激しい反発にもかかわらず、従来常民からだけ微収してきた軍布を両班からも徴収する戸布法を実施し、最も弊害が激しかった還穀制を社倉制に改革して農民たちの負担を軽減した。

 大院君は国家財政をむしばみ百姓を収奪する朋党の根拠地だった書院を大幅に整理して、600余カ所の書院を撤廃し47カ所だけを残した。このような施策は、書院に属していた田畑と奴碑を没収して国家財政を拡充し、農民に対する両班と儒生の横暴を押さえるための画期的な措置だった。書院撤廃は儒生の強力な反発を呼び起こしたが、大院君は果敢にこれを貫徹した。

 また、大院君は失墜した王室の威厳を誇示するために、壬辰倭乱のときに焼失してしまった景福宮を再建した。彼は莫大な工事費を準備するために、願納金を強制的に徴収し、当百銭を乱発して経済的混乱をもたらしたりした。さらに、両班の墓地林まで伐採し、多くの農民を土木工事場へ微発するなど両班と百姓の怨声を招いたりした。

 このように大院君の対内的な王権強化政策は、伝統的な統治体制を再整備して国家機構を立て直し、農民に対する両班支配層の不当な抑圧と収奪を禁止し、民生を安定させることに寄与した。しかし、それは伝統体制内での改革政策という限界性を持つものだった。


丙寅洋擾と辛未洋擾
 19世紀中葉、朝鮮社会は外勢の浸透で危機を迎えていた。大院君が執権する以前からフランス人宣教師が国内に潜入、宣教活動をしたので天主教信者はしだいに増えていき、義州、東萊などをとおって西洋の商品が不法流入していた。このような時期に執権した大院君は、外勢の浸透を防ぐために国防力を強化し、列強の通商要求を拒絶して、西洋商品の流入を厳禁した。

 この時期の天主教は、フランス宣教師の活動によって教勢が拡大して信徒がが2万余人に達した。大院宕は最初は天主教に寛大で、フランス人宣教師の斡旋でフランス勢力を引き入れてロシア勢力の南下を牽制しようとした。しかし、その交渉は失敗に終わり、折しも清での天主教弾圧の情報が伝えられ、儒生の強力な要求もあって、大院君は天主教に対して大々的な弾圧を加えるようになった。丙寅迫害と呼ばれるこの弾圧で9人のフランス人宣教師と千人の信徒が処刑された。

[写真:江華城南門(仁川・江華)]

 ためにフランスは、宣教師の処刑を口実に侵略してきた。フランスは極東艦隊司令官ローズ(Roze)捉督がひきいる7隻の軍艦を派遣して江華邑を占領占領し、ソウルに進撃しようとした。しかし、大院君の固い抗戦意志と漢聖根、梁憲洙部隊の抗戦で文殊山城と鼎足山城でフランス軍を撃退したので、これを丙寅洋擾という(1866年)。

[写真:アメリカ軍艦コロラド号(辛未洋擾)]

 ほとんど同じ時期にドイツ商人オッペルトが通商を拒否されると、これに報復するために忠清南道徳山にある南延君の墓を盗掘していて発覚し逃げるという事件があった。

 一方、丙寅洋擾が起こる直前に、アメリカの商船ジェネラル・シャーマン号(General Sherman)が大同江をさかのぼってきて通商を要求したが、平壌軍民と衝突し炎上沈没した事件があった。これを口実にアメリカはアジア艦隊司令官ロジャーズ(Rodgors)捉督がひきいる5隻の軍艦で江華島を攻撃してきた。

 当時、大院君は丙寅洋擾以来国防力をいっそう強化していたので、アメリカ艦隊が江華島に侵略してくると、魚在淵などがひきいる朝鮮の守備隊が広城堡と甲串などでこれを撃退したので、これを辛未洋擾という(1871年)。

 フランスとアメリカの侵攻を撃退した大院君は、“西洋蛮人が侵犯したことに戦わないことはすなわち和議することであって、和議を主張することは国を売ることだ"という内容の斥和碑を全国各地に建てて西洋との修好を断固拒否した。

 大院君の通商修好拒否政策は外勢の侵略を一時的に阻止することには成功したが、朝鮮の門戸開放を妨げて近代化に後れる結果をもたらすことになった。



江華島条約と開港
 10年間執権していた大院君が権力の座から退いて閔氏一族が台頭すると、朝鮮政府の国内外政策は少しずつ変化しはじめた。

 このとき、国内では開港反対論が優勢だったが、開港の必要性を主張する動きも芽生えていた。朴珪壽、呉慶錫、劉鴻基などの通商開化論者は、当時朝鮮社会が門戸開放のための内的準備ができていたと見なかったが、列強の軍事的侵略を避けるためには開港が不可避であることを主張した。このような通商開化論者の勢力は大院君政権の崩壊とともに成長し門戸開放のための条件をととのえた。

 一方、明治維新以後、近代国家の体制を整え資本主義化を急ぐとともに海外進出を試みていた日本は、雲揚号事件を起こし朝鮮の門戸開放を強要してきた。そうして朝鮮はついに日本と江華島条約を結び門戸を開放するようになった(1876年)。

[絵:日本の雲揚号]

 江華島条約はわが国が外国と結んだ最初の近代的条約であったが、これは不平等条約であった。江華島条約で朝鮮は自主国として日本と平等な権利を持つと規定していたが、それは朝鮮に対する清の宗主権を否認することによって、日本の朝鮮侵略を容易にしようとするものであった。そしてこの条約では朝鮮の釜山のほかに2港の開港、日本人の通商活動許可と朝鮮沿海の自由なな測量を規定していた。これは単純な通商交易の経済的目的を超えて政治的、軍事的拠点を作ろうとする日本の侵略意図をあらわにしたものだった。

 さらに、開港場での日本人犯罪者を日本領事が裁判する領事裁判権、つまり治外法権条項を設定することによって、朝鮮に居住する日本人の不法行為に対する朝鮮の司法権を排した。とくに、治外法権、沿岸測量権などは朝鮮に対する主権侵害だった。

 このように、日本は過去に日本が開港するとき、アメリカ、イギリスなどと結んだ不平等条約をそのままわが国に強要したのだった。

[写真:朝米修好通商条約文]

 江華島条約につづいて付属条約と通商章程が結ばれ、朝鮮国内での日本外交官の旅行自由、開港場での日本居留民の居住地域設定と日本貨幣の流通、そして日本の輸出入商品に対する無関税及び糧穀の無制限流出などが許容された。これによって、朝鮮に対する日本の経済的侵略の足場が容易に構築された半面で、朝鮮は国内産業に対する保護処置をほとんど講じることができなくなった。


江華島条約の主要内容
第1項 朝鮮国は自主の国であり、日本国と平等な権利を持つ。
第2項 日本国政府は今から15ヵ月後随時に使臣を朝鮮国ソウルに派遣する。
第3項 朝鮮国は釜山以外に2カ所を開港し、日本人の往来、通商を許可する。
第4項 朝鮮国は日本国の航海者の自由な海岸測量を許可する。
第5項 日本国人民が朝鮮国指定の各港に滞在中に犯した罪が朝鮮国人民に関係する事件であるときはすべて日本官員が審判する。


各国との条約締結
 朝鮮は江華島条約で日本に門戸を開放した後、西洋諸国に門戸を開放した。一時武力で朝鮮の門戸を開放させようとして失敗したアメリカは、朝鮮が日本と条約を結ぶと、再び朝鮮との修交に関心を持ち日本に斡旋を要請したが、成功しなかった。

 この頃、ロシア勢力の南下に対応して、朝鮮はアメリカと連合すべきだという内容の黄遵憲の『朝鮮策略』が国内の知識層に流布して、アメリカと外交関係を持つべきだという主張も起こっていた。結局、ロシアと日本勢力を牽制して、朝鮮に対する宗主権を国際的に承認させる機会をねらっていた清国の斡旋で、朝米修好通商条約が締結された(1882年)。

 朝鮮が西洋諸国と結んだ最初の条約である朝米修好通商条約では、両国中一つの国が第三国の圧迫を受けた場合に相互に助け合うと規定していた。しかしこの条約も領事裁判のために治外法権と最恵国待遇を規定する不平等条約だった。アメリカと条約を締結した朝鮮は、続いてイギリス、ドイツ、ロシア、フランスなどの諸国とも外交関係を結んだ。



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