V 古代社会の発展
4 古代文化の発達
4 芸術の発達
郷歌と音楽
 『三国志魏志東夷伝』には、わが民族は歌を楽しんで歌い、踊りを好んでだと記録している。こうした芸術的素質は中国音楽の影響をうけ、三国時代に至って一層発達した。三国時代の歌謡としては高句麗の黄鳥歌、百済の井邑詞、新羅の郷歌である彗星歌、薯童謡などが伝わっている。

 楽器では管楽器、弦楽器、打楽器などがあった。高句麗の王山岳は晋の七玄琴を改良してコムンゴをつくり、多くの歌を新しく作った。

 大伽耶には伽耶琴とその楽曲があって、干勒はこれを新羅に伝えた。新羅には大・中・小の笛を3セットとコムンゴ、伽耶琴、琵琶の三弦があった。百済の音楽は高句麗と似ており、日本に伝えられて日本の音楽に多くの影響を及ばした。

 統一期になって郷歌は仏教の影響をうけてたいへん発達し、僧侶や花朗の間から多くの作品が現れた。月明師と忠談師は郷歌の作歌として有名であり、真聖女王のとき、大矩和尚と魏弘は歴代の郷歌を収集して『三代目』という郷歌集を編纂した。今日まで伝わっている郷歌は『三国遺事』に収録された14首と、高麗はじめに均如がつくった11首をあわせて25首だけである。その内容は国家の平安を祈るものや仏を賞賛するもので、ときには死んだ人を偲ぶ心を歌ったものであり、その時代の人びとの高い精神世界をのぞき見ることができる。

 一方、渤海でも音楽と舞踊が発達した。渤海楽は日本に伝えられ、日本は楽工を渤海に派遣して音楽を習わせた。また渤海の楽器は後に宋の楽器製作に影響を与えた。


5 古代文化の日本伝播
三国文化の日本伝播
 新しい文物をもって日本に渡ったわが国の人たちは古代の日本人を教化した。

 百済の阿直岐と王仁は日本に渡って漢文を教えたが、このとき漢学は日本人に文学の必要性を認識させ、儒教の忠孝思想も普及させた。また、百済は仏教、仏像と五経博士、医博士、暦博士、そして画家と工芸技術者等を送ったが、その影響で五重の塔も建てられ、百済伽藍という建築様式も生まれた。

三国文化の日本伝播
[図:三国文化の日本伝播]
[写真:三国時代の金銅弥勒菩薩半跏思惟像]
[写真:広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像]
[写真:高句麗江西修山里古墳壁画]
[写真:日本高松塚古墳壁画]

 一方高句麗も日本文化に多くの影響を及ぼした。高句麗の僧侶慧慈は日本の聖徳太子の師となり、曇徴は儒教の五経と絵画を教え、紙と墨の製造方法まで伝えた。日本の自慢の種である法隆寺の金堂壁画も曇徴の絵だといわれている。とくに現在日本の各地に残っている古代の仏像のなかには、その形や特徴からみて、三国の影響をうけたものが多い。

 新羅では築堤術と朝鮮酒を日本に伝えたが、とくに築堤術の伝播で韓人の池という名前まで生まれるようになった。この他に三国の音楽も伝えられ高句麗楽、百済楽、新羅楽などの名まで生まれ、日本音楽の主流をなすに至った。

 こうして三国時代にわが国の流移民が日本列島に渡って、先進技術と文化を伝え、大和政権を誕生させ、日本古代の飛鳥文化を成立させるのに貢献した。


統一新羅文化の日本伝播
 三国文化につづいて統一新羅の文化も日本に伝播した。日本に伝えられた新羅の政治制度は、大化の改新以後の強力な専制王権の確立に寄与した。

 また、統一戦争で見せた新羅人の強烈な国家意識は、日本の指導者たちに大きな影響を与えたりもした。
(6)

 統一新羅文化の日本伝播は、日本が新羅に使臣を派遣することですすめられた。この時期に日本に伝えられた元暁、強首、薛酵聰などの仏教、儒教文化は、日本の白鳳文化の成立に貢献した。とくに、至相によって伝えられた義湘の華厳思想は、日本の華厳宗を大いに発展させた。


(6) 日本の奈良時代には大宝律令が頒布され(702年)、専制的な国王君臨する貴族政治が行なわれた。


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