V 古代社会の発展
2 古代の政治的発展
1 中央集権化の進展
高句麗の発展
 三国の中で最も早く発展した高句麗は、2世紀後半になって体制の中央集権化と王権の強化に新しい進展をもたらした。従来の部族的伝統の5部が、行政的な5部に変わり、王位継承は兄弟相続から父子相続へ変わった。

高句麗の全盛(5世紀長寿王時代)
[図:高句麗の全盛(5世紀長寿王時代)]
 3世紀中頃に衛が高句麗とのはさみ打ちで、満州一帯で独白な勢力を育ててきた公孫氏を滅亡させるや、高句麗は中国勢力と正面から対決するに至った。この過程で衛の侵入をうけたこともあったが、4世紀はじめに高句麗は楽浪郡を討って中国勢力をわが国から追い出すことに成功した(313年)。しかしその後、北から前燕、南から百済の侵略をうけて国家的な危機を迎えることにもなった。

 高句麗が危機を迎えることになったのは、部族別に散らばっていた力を組織的に統率できなかったところにその原因があつた。

 こうした状況を克服して国家体制を大きく改革しながら、新しい発展の土台を整えたのは小獣林王のときのことだった。すなわち、仏教の受容、大学の設立、そして律令の頒布などは、まさしく地方に散在した部族の勢力を効果的に統制し、中央集権国家への体制を強化しようとするものであった。

 小獣林王のときの体制改革にもとづいて、広開土大王の時代には国力を外に膨張させ、その諡名が意味するように、広い領土を確保した。遼束方面を含んだ満州の大部分の地域が高句麗の版図となり、南側では百済を圧迫し、新羅を助けて南海岸の一部地域に侵入した倭軍を撃退したこともあ

[資料:広開土大王陵碑文(拓本)]

る。当時の活発な征服事業については、国内城に建てられた広開土大王陵碑にその内容が記録されている。

 その後、長寿王のときには国内城から平壌に遷都し、高句麗発展の新しい転機をもたらした。高旬麗の平壌遷都は、内には王権を強化する契機となり、外には百済と新羅を圧迫する要因となったばかりでなく、西側の海岸に積極的に進出する契機となった。このころ高句麗は全盛期を迎えたが、北燕王が頼ってくると長寿王は、一時北中国地域の支配者であった北燕王を領土内にとどめて、彼を諸侯として遇したりもした。


百済の発展
 百済が刮目すべき発展を遂げるに至ったのは、4世紀後半の近肖古王のときのことであった。このとき百済は領土を大きく広げ、馬韓の残った領域を征服して全羅道南海岸に達し、北では高句麗の平壊城まで攻撃した。同時に、洛東江流域の伽耶諸国に対しても支配権を行使した。こうして百済は今日の京畿、忠清、全羅道と洛東江中流地域、江原、黄海道の一部を含む広い領土を確保した。また、百済は水軍を増強して中国の遼西地方に進出し、つづいて山東地方と日本の九州地方にまで進出するなど、活発な対外活動を展開した。

百済の発展(4世紀)
[図:百済の発展(4世紀)]

 一方、百済はすでに古爾王のときに体制を整備して、高句麗や新羅より洗練された制度を整えた。しかしそれは連盟王国体制を強固にする制度の整備であり、王権中心の中央集権国家体制は近肖古王のときを前後して整備された。枕流王のときには仏教が公認されたが、これは中央集権国家の創立と関連している。

 全盛期の百済は漢江流域を支配したが、その地域に対する防護のために国力を多く消耗していた。

 5世紀後半、百済は高句麗の南進政策に大きな打撃をうけて、その中心地域である漢江流域を奪われてしまった。これによって百済は首都を漢城から錦江流域の熊津へ移した(475年)。熊津遷都以後の百済は王権が弱体化し、支配勢力が交替して、国力の衰退とともに政治的不安に苦しむに至った。

 こうした状況から社会が安定して国力が再び回復するのは、東城王から武寧王に至るときであった。このとき地方に22擔魯を設置して、ここに王子と一族を封じて地方に対する統制を強化した。

 一方、熊津は高高句麗の攻撃を避けるための一時的な首都であったので、百済が新しい発展の拠点を用意するためには、もっと広い場所に新首都を建設する必要があった。

 そうしてつぎの聖王は泗沘へ遷都し、国号を南扶餘に改称して百済の中興を企てるようになった。このときの百済は中央官署および地方制度を強化し、新しい国家発展をめざしたし、中国の南朝と活発な交流関係を維持した。そして謙益のような僧侶を登用して仏教の振興を企てることによって国家の精神的土台を固めた。


2 三国間の競争と対外関係
三国の外交
 三国時代にわが民族は主に中国の侵略勢力と対決し、抗争した。とくに、国境を直接接していた高句麗の場合はなおさらそうだった。高旬麗は中国の漢の郡県との対立抗争のなかで成長し、ついにはこれらの勢力を追い出すことによって国家発展の土台を作った。

 高句麗は衛、前燕などの侵入で一時危機を迎えたこともあったが、中国勢力の圧力を追い出して、広開土大王以後には東アジアの大帝国建設に成功した。

 高句麗の全盛期に中国は依然として分裂状況にあったので、こうした事情をうまく利用した高句麗は、南北朝と外交関係を樹立することによって中国の勢力を巧妙に牽制した。

[写真:新羅一百済通門(全羅北道、茂朱)]
[写真:七支刀]

 一方、百済は北方民族や中国の北朝とたえず接触したのではないが、やはり漢の郡県の侵入を退けながら成長した。また、百済は発展過程で遼西、山東地方まで進出して
(3)対外的影響力を誇示し、熊津へ遷都した後には中国の南朝と緊密な関係を維持した。

 新羅は韓半島の東南部に偏っており、はじめは中国との交渉が高句麗や百済をとおして行なわれた。早くから高句麗をとおして北朝の文物が伝えられ、漢江流域占領以後には党項城を築いて黄海をとおして中国と直接交流した。

 三国の中で倭と最も緊密な関係を維持した国は百済であった。これは、多数の百済流移民が九州地方などの地に進出して国家建設につくしたためである。日本に現存する七支刀という刀は、百済王が倭王に贈ったもので、両国の親交関係をよく説明してくれるものである。

 百済はこのような関係にもとづいて倭軍を引き入れ、三国間の競争に利用したこともあった。


(3) 中国の遼西等の地に百済の勢力が進出したという記録は、『宋書』、『梁書』のような中国の歴史書に表れている。その時期はおよそ4世紀後半と見られ、百済の海上活動が活発であったことを示している。


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