V 古代社会の発展
1 古代社会の形成
2 韓国の古代社会
伽耶連盟
 三国が国家組織を整備していたときに、洛浪江下流地域の弁韓地域では別の独立した勢力が成長していた。伽耶の社会では、流移民勢力が主に海辺へ入ってきたが、新羅社会のように土着の勢力が強かった。

 2,3世紀ころ、金海の金官伽耶を主軸にして慶南海岸地帯に小国連盟体が形成された。連盟体の盟主である金官伽耶は金首露によって建国された(B.C.42年)。金官伽耶は近隣の小国を併合して領土を拡張し、統治細組織を整備した。

伽耶連盟の位置
[図:伽耶連盟の位置]
[写真:車土器伽耶の鉄製鎧(慶尚南道、高霊)]

 しかし韓半島内で高句麗と百済の間の勢力争いが熾烈になると、高句麗の軍隊が洛東江流域まで進出するに至った。こうした渦中で伽耶連盟王国内に含まれていた小国が離脱していった。これによって金官伽耶は大きな打撃をうけてその勢力が弱体化した。

 5世紀以後の伽耶は、戦争の被害をうけていない高霊地方の大伽耶にその中心が移り、連盟の勢力圏が再編された。これは伽耶地域の遺蹟によって知ることができる。つまり、以後、慶南の海岸地帯では古墳遺蹟の数や規模が小さくなる一方、慶尚道内陸の山間地域では次第に多くの古墳が築造され、その規模もたいへん大きくなったからである。

 一方、新羅の膨張に刺激されて早く成長をとげた大伽耶連盟王国は、陜川、咸陽、河東等の地域を包括する勢力圏を形成し、中国の南朝に使臣を送ったこともあったし、新羅や百済と同盟して高句麗に対抗したこともあった。

 しかしついに三国のような中央集権国家としての政治的発展をとげることはできなかった。これは、地域的に百済と新羅の中間に位置して両国の角逐の場となり、両国の圧力をうけて、不安定な政治状況がつづいたためである。

 6世紀前半に、大伽耶連盟王国は百済、新羅などの侵略をうけて、その南部地域から縮小されはじめた。そうしたなかで伽耶南部の小国が大伽耶に不信をもち、再び金官伽耶を中心にして連盟王国と作ろうとしたので、新羅はこの地域に百済と倭の勢力の影響を及ぶことを恐れて、急遽、軍隊を起こして併合した(532年)。

一方、大伽耶連盟は新羅と結婚同盟を結んで勢力をかろうじて維持したが、しばらく後に、分裂が生じてその勢力が弱まり、ついに新羅に併合された(562年)。

 伽耶の小国は早くから稲作などの農耕文化を基礎にしながら、鉄の生産と中継貿易によって発展をとげた。とくに、高霊、陜川などの地域にあった大伽耶連盟王国は農業の立地条件をよく整えていたので、そうした基礎の上に慶南海岸地方から土器の製作技術が普及し、手工業が起こって大いに繁盛した。

 政治的発展が未熟であったにもかかわらず、伽耶連盟王国は周辺の諸国の外にあった郡県や東海岸の濊、そして南では倭とも交易して、海上の中継貿易を掌握して経済的にたいへん繁栄した。

 伽耶文化を見せてくれる遺蹟としては高霊の池山洞古墳、釜山の福泉洞古墳などが有名であり、これらの古墳から金銅冠、鉄製武器と鎧、土器などが発掘されて、伽耶文化の高い水準を見せている。とくに、伽耶土器は日本地域に伝えられて、須恵器土器に直接的な影響を与えもした。


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