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抗日運動家? 通貨偽造の犯罪者

朝鮮日報 2006/02/04 19:00

【独立運動】明かされる東南アジアの韓人抗日運動

 台湾の申采浩(シン・チェホ)、フィリピンの安昌浩(アン・チャンホ)、シンガポールの洪命喜(ホン・ミョンヒ)…。

 中国やロシア、米国などに比べあまり知られてはいないものの、日帝支配下の独立運動は東南アジア地域でも盛んだった。

 独立記念館(館長:金三雄(キム・サムウン)は国家報勲処(処長:朴維徹(パク・ユチョル))とともにベールに包まれていた東南アジア地域の独立運動について記した「国外独立運動史跡地実態調査報告書―東南アジア地域編」を2日、発刊した。

 独立運動史研究所のキム・ドヒョン(46)研究員は「昨年9〜10月、台湾やシンガポール、フィリピン、インドなどの3チーム10人からなる専門家たちで新たな史料を多数発掘した」としながら、「現地の史跡や文献を通じ、東南アジア地域の独立運動史に再びスポットライトをあてられたことが最大の意義」と話した。

▲シンガポールの洪命喜、台湾の申采浩

 碧初(ビョクチョ)洪命喜は1916年4月、シンガポールを拠点に韓人同志3人とともにマレーシアのゴム農場を買い上げた。独立運動資金を調達するためだ。

 関連文献は、洪命喜が当時2200ウォンあまりの大金を支払ったと記している。しかし、事業がうまくいかなかったのか、1917年10月には農場を売り払い、事業をたたんでいる。

 1928年4月、中国天津で「東方無政府主義者連盟」に加入した丹斎(タンジェ)申采浩は、独立運動資金を調達するため当時6万4000ウォンの外貨を偽造した。

 一部を中国で現金に替えることに成功した申采浩は、残りを売りさばくため5月に台湾の基隆港に到着、現地警察に逮捕されている。

 1928年5月12日付の台湾日日新報は「数十個の仮名で活動してきたアナーキスト申采浩が激しく抵抗した」と事件の内容を詳しく報じた。

 独立記念館は今回の調査で1913年、香港で白巌朴殷植(ペクアム・パク・ウンシク)先生が中国革命政府の援助を受けて発刊した独立運動誌「香江」の創刊号を見つけ出し、1928年に台湾で日本天皇の義父、久邇宮邦彦王(香淳皇后の父)を暗殺した趙明河(チョ・ミョンハ)烈士の義挙場所を正確に確認する成果も上げた。

▲フィリピンの安昌浩と呂運亨

 1929年2月、島山(トサン)安昌浩は日帝が牛耳ってきた上海と満洲地域から脱し、新たな独立運動拠点の開拓に乗り出した。安昌浩は満洲の韓人らをフィリピンに大移住させる計画を立て、フィリピン移民国を訪れた。

 当時フィリピン政府は「日本のパスポートを持っていなければならず、1人あたり50ウォンが必要」との条件を提示した。当時50ウォンといえばコメ5かますに値する額で、労働者1人の月給がコメ1〜2斗に過ぎなかった当時としてはかなりの大金だったほか、日本のパスポートの取得も困難を極めた。

 安昌浩はQuezon上院議長ら有力者に会い、支援を要請したものの、結局挫折してしまう。しかし、フィリピンに「大韓人国民会フィリピン支部」を設立するなど部分的な成果もあった。

 1927年は、夢陽呂運亨(モンヤン・ヨ・ウニョン)が初期臨時政府と事実上決別し、独自の独立運動を模索した時期。中国上海の復旦大学サッカーチームを指導していた呂運亨は同年、サッカーチームを率いてフィリピン遠征に向かった。

 呂運亨は現地の歓迎イベントで「南方植民地の民衆は帝国主義に対立し、連帯しなければならない」と演説、日本側の抗議で米国警察によりマニラの中国YMCAビルに抑留される。

 しかし、フィリピン有力者たちの抗議で数日後に釈放された呂運亨は、フィリピン・プレス、ラオピニオン、パガガイ社など進歩的な新聞社と立て続けにインタビューを行い、朝鮮独立の当為性と反帝連帯闘争を主張した。

▲インドネシアの朝鮮青年たち

 太平洋戦争開戦後、日帝は3000人あまりの韓人青年を軍属として強制徴用し、タイやインドネシアなどの捕虜収容所に配置した。このうち、インドネシア・ジャワの収容所に配置された朝鮮人捕虜監視員らは1944年12月、「高麗独立青年党」を結成する。

 団員だった20代初めの青年ソン・ヤンソク、ミン・ヨンハク、ノ・ビョンハクの3人は、ジャワ中部のアンバラワで日本軍武器庫を襲撃、12人の日本人兵士を殺害した後、自決する。後日、「アンバラワ義挙」と呼ばれる事件だ。

 このほか、独立記念館研究チームは、大韓民国臨時政府の韓国光復軍所属として英国軍とともにインドやミャンマーの国境地域で日本軍と戦った「印緬(インド、ミャンマー)工作隊」の活躍も現地で確認した。

参考記事