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100年前の日韓保護条約無効を主張し続ける歴史修正主義者

中央日報 2005.11.11 11:18:01

「日本首脳部、高宗に乙巳条約強要した」ソウル大教授

 ソウル大国史学科李泰鎮(イ・テジン、62)教授。韓国学術団体連合会会長でもある同教授がこの何年間こだわっているテーマがある。日本の韓国併合の強制性を明かすことだ。すでに過去のテーマだという学界一部の見方もあるが、彼は自信をもって追究し続ける

 論議をする環境は急激に変わった。植民地になったおかげで近代化したという「植民地近代化論」が公然と取り上げられる状況だ。

 李泰鎮教授は朝鮮後期から資本主義が芽生えていたという「内在的発展論」の強い支持者だ。日本が武力を前面に押し出して強制的に韓国を併合した事実を明かすことで、植民地時代の日本の本来の姿を現すことができると彼は考えている。

 乙巳条約(ウルサ、第二次日韓協約)100周年を迎えその目標に近接する傍証資料を公開した。教授の説明による乙巳条約締結当時の帝国主義日本の素顔は次の通りだ。

 乙巳条約は1905年11月17日に強制された。当時、韓国に駐屯した日本軍司令官長谷川好道駐箚朝鮮軍司令官と伊藤博文特使はどこにいただろうか。四大門外の竜山(ヨンサン)にいただろうと考えがちだ。1910年以後、日本軍司令部が竜山に駐屯したのは事実だからそう考えて当然だ。

 しかし1905年は、そうではなかった。当時、高宗(コジョン)皇帝いた漱玉軒(スオクホン、徳寿宮の離れ、ソウル中区所在)の目の前に長谷川司令官の司令部があった。長谷川司令官のいた所は、今の朝鮮(チョソン)ホテルのすぐ向こうにあった「大観亭(ソウル中区小公洞)」だった。今は駐車場に使われているが100年前の階段はそのまま残っている。

 大観亭から漱玉軒までは歩いて10分もかからない距離だ。長谷川司令官は馬車に乗れたのでもっと早く到着できたはずだ。大観亭は本来、大韓帝国皇室の迎賓館だった。emperial guest house」とも呼ばれた。

 「日露戦争が勃発した1904年から大観亭を長谷川司令官が無断占領します。当時から日本はソウルの主な公共機関の大部分、手をつけ始めます。高宗皇帝が住んだ漱玉軒からもっとも近くてしっかりした建物である大観亭を長谷川司令官が自分の司令部として選択したのです」

 最近李教授は1901年、米国人旅行家バートン・ホームズが書いた世界旅行書『バートン・ホームズの旅行講義』(『The Burton Holmes Travel Lecture』)から大観亭の写真を見つけた。世界の風物を紹介した旅行書だから乙巳条約と関係のある説明はない。

 しかし李教授の目には特別なものに見えた。李教授は大観亭こそ乙巳条約当時の状況を再構成するのに見落としてはいけない重要な歴史の現場だと強調した。大韓帝国皇室の中央で武力デモをしている姿だというのだ。

 乙巳条約当日の状況もそうだった。「京城府史」や「在韓公使記録」などを見れば当時、林公使より長谷川司令官の宮廷の出入りが多かった。運命の17日、日本の2人の首脳部が大観亭で林権助公使の言伝が来るのを今か今かと待つ。1人は長谷川司令官。彼の横には日本本国から特別に派遣された伊藤博文特使が立っていた。その日午後6時30分ごろ林公使の言伝が到着した。

 「待ちに待った乙巳条約締結文書は来ませんでした。言伝は『韓国側の反対をくつがえすことができない』と言う内容でした。それで長谷川司令官と伊藤特使が直接足を運んだということです。

 2人は憲兵たちを連れて高宗皇帝がいる漱玉軒に馬車で行ったんです。そして条約締結を強要しました。遠く離れた竜山ではなく、すぐ目の前で武力デモしてもこと足りず、直接、皇室まで出向いたわけです」

 長谷川司令官は自ら「韓国併合の一等功臣」と自慢していたという。荒井信一日本駿河大教授が書いた論文「韓国保護過程の軍事と外交」に記載されている。しかし日本政府は長谷川司令官の功労を認めることができなかった。日本が強制したことを自認することになるからだ。

 「日本政府は小公路一帯を長谷川町と名付けることで長谷川司令官の功労と名誉を残してやりました。乙巳条約100年を迎え、その日1日の日程だけ簡単に再構成して見ても、日本が武力で圧力をかけ条約を締結したことが理解できませんか」

 李教授が公開したバートン・ホームズの本には大観亭を含む1901年当時のソウルを写した写真が多く掲載されている。京城駅(現在警察庁付近)や高宗皇帝が徳恵翁主(トクヘオンジュ)の手を握って撮った場面などは貴重な写真だ。

ペ・ヨンデ記者 <balance@joongang.co.kr>

中央日報 2005.11.16 13:13:45

「軍部大臣震えながら締結」乙巳条約文献発見

 乙巳(ウルサ、第2次日韓協約)条約締結当時、長谷川好道駐在朝鮮軍司令官が強圧的に条約締結に追いやった情況を自ら記録した文献が発見された。

 荒井信一駿河大学名誉教授は、条約締結5日後の1905年11月22日長谷川司令官が作成した「保護条約締結始末」を最近、旧陸軍省の「戦域陸軍正史」から発見したと14日、明らかにした。

 報告書によると長谷川司令官は韓国政府を強圧するために条約締結半月前、軍隊動員命令を受けた。彼は武力デモを起こして大韓帝国李根沢(イ・グンテック)軍部大臣に会い、条約締結に応じなければ無力行使すると脅迫したという。

 日本の組織的な軍隊動員が日本軍内部記録から確認されたのは今回が初めてだ。

 長谷川司令官は条約締結当日の17日、騎兵連隊および砲兵連隊まで動員して巡察を強化した状況を描き「(韓国人は)皆震えており1人も大声を出す者はいなかった」と記録している。韓国政府の警察顧問だった丸山重俊氏も「歩兵・騎兵・砲兵の3兵とが旧王宮(景福宮)前広場で1日中訓練した」とし、このような武力デモにより「一種の恐怖感を抱いた多くの韓国兵が制服と武器を捨てて逃げた」と報告した。

 長谷川司令官は締結前日、李根沢軍部大臣に「私が取るほかない最後の手段が何かは敢えて説明しない」と言うと李大臣は「おののきながら直ちに入闕(宮中に入ること)した」という。恐ろしさを感じた李根沢大臣は翌日、伊藤博文に条約に賛成すると明らかにし、乙巳五賊(ウルサオジョック)となったのだった。

 長谷川司令官は別途の「意見書」で「韓国は元々威嚇して服従させなければならいもので、懐柔は通じない」とし「彼ら(高宗と大臣たち)は先例(明成皇后殺害事件)があって毎夜、悪夢にうなされているが、その連想は直ちに軍隊恐怖症を起こす」とも記録している。

 荒井教授は「報告書は乙巳条約が日本政府の組織的強制で成り立った事実を立証することで条約自体が国際法的に無効であることを明らかにする史料だ」と述べている。

 荒井教授は来年1月に出版する著書『歴史の和解は可能か』(岩波書店)にこの内容を収録する予定だ。

東京=イェ・ヨンジュン特派員 <yyjune@joongang.co.kr>

東亜日報 NOVEMBER 17, 2005 07:58

「日本の圧力で乙巳条約を締結」「源泉無効」国際論争に再点火

「今になって、死者に何を聞くというのですか。まだ話しはできても『未冷屍(冷たくない死体)』です。冷たくならない死体と何の違いがありますか。乙巳(ウルサ)の年以来、話もせず聞くことも避けていたら、いつの間にか耳も遠くなり目も見えなくなりました。話すことはできますが、もう本当の死体になろうとしているようです」

韓圭?(ハン・ギュソル)は、伊藤博文が訪韓した9〜18日の切迫した状況を詳細に述べ、当時すべての大臣が条約締結に反対するという決意を固くしたものの、軍隊まで動員した日本の強圧によって条約が締結されたことを証言した。

「17日に日本公使館に呼ばれ、宮廷に戻って御前会議を開いたが、調印はできないと陛下に申し上げた。外部大臣の朴斉純(パク・ジェスン)は、命にかえても調印を阻止する決心をしたと言った。この間に、日本の外交官と無数の軍人が内殿近くに入って、形勢は非常に切迫した。学部大臣の李完用(イ・ワンヨン)、農商工部大臣の権重顕(クォン・ジュンヒョン)と内部大臣の李址鎔(イ・ジヨン)が拒絶ばかりが能ではないと言い、条文の修正を要求しようともっともらしい意見を出したことで、会議は混乱に陥り、陛下は内殿に戻られた。

伊藤が再び現れ、条約締結を強要したが、私は万民公論に付すという理由で期日を延期するのがいいと考え、陛下に会いに会議場を出たが、日本の通訳官によって再び伊藤のところに連れて行かれた。伊藤の要求を再び拒否すると、日本の士官たちは門をふさぎ、私を翌日の午前1時半まで、漱玉軒(スオクホン)に閉じこめた。その間に、外部大臣が調印したという話を聞き、私は泣いた。私は、外部大臣が同意しても、総理大臣の同意を得て連署で上奏し、裁可を仰がなければ無効であることを承知していたので、法部大臣と度支部大臣を除き、すべて免官する手続きをとった。しかし、その翌日からは、すでにまったく別の世の中になった。御前での行為が道理に反するという罪名をつけられ、私が免官となり、3年間の島流しという勅命が下された」

「韓末の政客の回顧談」というタイトルで、3回にわたって連載された韓圭?の証言は、その後、乙巳条約が強圧によって成立したため、国際法上無効だという主張の主要な根拠になった。日本植民地時代に韓国関連の消息を日本に伝えた「朝鮮通信」は、韓圭?の証言を報じた本紙記事をそのまま翻訳して、1930年1月14〜17日の期間に報道した。しかし最近、国内のある新聞が、本紙の報道事実を知らず、朝鮮通信を引用して「乙巳条約が日帝の強制によって遂行されたことを重ねて立証する資料が、100年ぶりに発見された」と1面トップで報じた。

光復(独立)後、乙巳条約の不当性についての最初の問題提起は、兪鎮午(ユ・ジンオ)元高麗(コリョ)大学総長が1951年7月25日〜8月1日に本紙に連載した「対日江華条約案の再検討」という記事だった。その後、乙巳条約に関する研究は、1992年5月、ソウル大学の李泰鎮(イ・テジン)教授が乙巳条約の原文に条約の名称が抜けており、皇帝の批准に関する文書がないことを発見したことで、新たな局面を迎える。さらに、1993年10月24日には、米コロンビア大学の貴重本図書館で、高宗(コジョン)がホーマー・B・ハルバートを通じ、9カ国の国家元首に、乙巳条約が無効であることを伝えた英文親書が発見された。

朝鮮日報 2005/11/18 12:11

乙巳条約100周年 釜山で靖国神社参拝を糾弾する集会

 APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議に出席するため、日本の小泉純一郎首相の釜山(プサン)到着が18日に予定されているなか、17日に釜山で靖国神社参拝を糾弾する集会が開かれた。

 17日午後、6.15共同委員会釜山本部と太平洋戦争被害者補償推進協議会の所属会員らおよそ30人は、釜山東(トン)区の日本領事館付近の鄭撥(チョンバル)将軍銅像前で、日本首相による靖国神社参拝を糾弾した。

 集会の出席者らは、「17日は、日帝の強要によって乙巳条約(日本による朝鮮の外交権剥奪)が締結されてから100年に当たる屈辱の日」とし、「小泉首相は靖国神社参拝を中断して謝罪せよ」と促した。

 同日の集会には韓国、台湾、沖縄など第2次世界大戦被害者の遺族及び支援団体の代表ら、およそ10人も参加した。

 各国の代表は、「2005 東アジアの平和に向けた共同行動声明書」を発表し、来年には日本政府を相手取って戦犯たちの靖国神社合祀に反対する訴訟を起し、韓国と台湾の政府及び国会に、被害者の遺族を含む神社合祀共同調査団の発足を請願することにした。

 出席者たちは18日の正午、釜山の西(ソ)面で「乙巳条約ねつ造100年−対日過去史清算大会」も行なう予定だ。

東亜日報 NOVEMBER 17, 2005 07:58

[社説]乙巳条約100周年の大韓民国

今日は、1905年に韓国の外交権が日本にはく奪された乙巳(ウルサ)条約100周年を迎える日だ。日本の保護国に転落し、主権国家の根を失った苦しい経験は、「乙巳年(ウルシニョン)のようだ(わびしい、みじめだ)」という形容詞として残り、今日に伝わっている。「国破の日」と呼ばれる乙巳条約の5年後、この国は根こそぎ日本に奪われて亡国の日を迎える。

韓国は果たして、歴史から学んで、未来に進むビジョンを見出しているのだろうか。賢明に国益を固める外交をしているのだろうか。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権は、中途半端な自主を掲げて、国家発展の一軸となってきた韓米同盟を大きく揺さぶった。対日外交では、「歴史の不言及」と「外交戦争宣言」の間を行き交い、韓日関係の不安定さを増幅させた。

釜山(プサン)で開かれているアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議も、昨日開かれた韓中、米日首脳会談のような2国間会談も、国益の角逐と調整の場に相違ない。今日、北朝鮮核問題をめぐる6者協議参加国の米国、中国、日本、ロシアの4カ国は、100年前に韓半島で自国の国益実現のために競い合ったまさにその列強である。冷厳な国際秩序の力学を正確に読み取って能動的に対処しなければ、100年前も今も変わったところはない。

まず、国際情勢を客観的に読み取る能力と情報収集能力が問題だ。乙巳条約締結の2ヵ月前に日露戦争を勝利した日本は、ポーツマス条約で「韓国に対する優越権」を認められた。同年7月、米日間で「タフト・桂密約」が結ばれ、この地に対する日本の主導権が了解された。日本は8月の日英同盟改正を通じ、朝鮮を「指導監理保護」する背景を作り出した。このような列強の幕裏の取り引きと工作を、当事者である韓国だけがまったく知らなかったのだ。

緊迫する現実を読めなかった当時の大韓帝国政府は、韓米条約によって米国が日本の野望を阻止することを期待した。しかし米国のルーズベルト大統領は、日本を支援することが米国に利すると考え、ポーツマス条約でも積極的に日本の諮問に応じた。無知無能な外交が国を亡ぼしたのだ。

今日の大韓民国はどうか。日米同盟は、「史上最高の蜜月」と自他が公認する状況であるのに比べ、韓米同盟は、不協和音を発して動揺している。盧武鉉政権の理念過剰と親北朝鮮偏向は、国家アイデンティティの危機を呼んだ。過度な親中は、韓米日の協力を脅かすという憂慮を生んでいる。成長動力の喪失で、国の経済の未来も明るくない。さらに、内部対立を拡大再生産する敵対リーダーシップは、国を分裂の沼に陥れている。大韓民国はどこに進んでいるのか。

 条約無効を訴えるために、100年前の政治家や兵士が日本に怯え、いかに情けなかったかを強調して主張しているのを見ると、これは一種の自虐史観ではと思えてくる。

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