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ジャンパニーズドリームを掴んだ密入国者

中央日報 2005.06.09 11:25:52

「底から這い上がって億万長者」…パチンコ業界ナンバーワン経営者の韓昌祐会長

 日本のパチンコ業界を率いる「マルハン」の東京本社会長室には韓昌祐(ハン・チャンウ、74)会長が勲章を授与された写真が大きくかけられている。

 1999年、日本政府から受けた勲3等「瑞宝章」だ。

 日本政府から勲章を受けた海外在住の韓国人は李煕健(イ・ヒゴン)新韓(シンハン)銀行創立者と韓会長の2人だけだという。

 韓会長は最近もう1つ「勲章」を授与された。 米国フォーブス誌が選定した世界億万長者ランキングで日本国内の24位にランクされたのである。 日本で上位30位以内の韓国系企業家は、孫正義ソフトバンクグループ社長(8位)に続いて2人目だ。 彼の純資産は11億ドル(約1182億円)。 フォーブス誌は「彼はあらゆる差別の中でも昨年、売上額1兆3000億円を記録し、パチンコ業界ナンバーワンを獲得した不屈の経営者だ」とし「「マルハン」の快速疾走は続くだろう」と激賛した。

 7日、東京本社で会った韓会長は「今回は日本国内24位に終わったが、来年はロッテを抜くだろう」とし「2010年には売上げ5兆円を記録し、韓国、日本を合わせて5位以内に入る」と自信をのぞかせた。

 日本屈指の企業家として登板した韓会長の人生は波乱の連続だった。

 15歳の1945年10月21日、夜11時。 会長は故郷の三千浦(サムチョンポ)近海に立った。 日本でレンガを積む仕事をしていた実兄の招きを受けてそのまま密航船に乗り込んだ。 「5〜6時間もあれば行けたのに24時間もかかりました。 船が波に揺れて気がもうろうとした状態で、到着した所が下関でした。 米2袋と英語の辞書が私の荷物の全部でした。 旅館に入って横になっていたが、目がぐるぐる回って畳を手でつかもうとしていました」

 それから3年間熱心に勉強した彼は、日本の有名私立大学の法政大学経済学部に進学した。 しかし大学を卒業したとしても、韓会長のような韓国人が職を得ることができる時代ではなかった。

 そこで会長は52年当時、京都から列車で4時間の峰山で、機械20台でパチンコ事業をしていた義兄のところへ身を寄せた。パチンコとの初めての出会いだった。

 義兄の下で仕事を習った会長だったが、67年自ら「ボウリング場」事業に飛び込んだ。 ボウリングブームが吹いたときであった。しかし行きすぎた拡張戦略をし、42歳だった72年当時、60億円の借金を抱えてしまった。 今のお金に換算すれば1200億円にも達する金額だった。

 「毎日自殺しようと決意しては子供たち(7人、当時は6人)と両親の顔が浮かび、戸惑う日々が続きました。 そのようなある日、絶望の中でヘミングウェイの『老人と海』を思い出したんです。 不屈の意志で魚を捕ろうとする老人の姿が浮かび『若い私にできないわけがない』と闘志がわいたんです」

 そうして会長は「本業」のパチンコに戻ってきた。車で寝泊りをしながら全国を回った。良い店舗の位置を1つ1つ確認し、売場を1つ2つ増やしていった。

 「借金元金を1年目は毎月25万円、2年目は毎月50万円、3年目は毎月75万円ずつ返して行きました。ハングリー精神とチャレンジャー精神で粘りました。そんなとき運良く、お客さんが来るようになったんです」

 いろいろな差別が彼を困らせた。 地域社会では韓国人という理由で青年会議所(JC)にも加入できなかった。

 「悲しかったが差別はどの国にでもあることだと自分に言い聞かせました。差別を減らすためには知性と教養を増やし、経済的成功を果たして、そして地域社会に奉仕しなければならないと考え、ほかの人々が8時間仕事をするとき、15時間仕事をしました」

 95年には夢に描いた「東京入城」に成功し、売上げは幾何級数的に増えた。 マルハンは現在、日本全国に180カ所の店舗、機械台数10万台の最大規模のパチンコを誇る。 従業員も7000人に達する。

 「細心の気配りが売上げを左右します。例えばその日お金をたくさん使った顧客にはそっと近づいて『ああ、申し訳ないです』話しかけて少し玉を融通してあげたり、たばこ1箱サービスしたりするんですよ。また売り場にたばこの臭いを除去する施設を設置し、それでも足りず簡易シャワー施設まで設置した。恋人たちのための専用座席も用意しました」

 会長は「パチンコ」が持つ否定的認識を払拭させるのに成功した人物にも評価を与える。

 「パチンコというとやくざのような暴力組織や不正な金を連想するでしょう。数年前まで私の会社に入る職員たちは『父母の反対が厳しい』『彼女が別れようという』など訴えてきていました。私は衝撃を受けました。 それでどの超一流企業より、透明な経営をするという目標を立てました。 今はあらゆる収入と経費などがリアルタイムで電算処理されるようにし、金融当局も感嘆して行くほどです」

 パチンコ業界に明るい大阪商業大学の谷岡一郎学長は「『マルハン』がパチンコ業界を浄化し、パチンコに対する国民認識が改善された」と話す。

 マルハンはまた、収益金の1%を地域社会の奉仕に充てている。

 マルハンには毎年東京大学、早稲田大学など名門大卒業生を含む5000人の入社希望者が殺到する。 入社競争率は10対1を超。

 マルハンは東京証券取引所に上場するために現在金融当局と協議中だ。だが上場の目的がほかの会社と違う。

 「私は上場を通じてお金を儲けたり資金を調達したりしようとはしません。マルハンの上場は透明な会社であることを社会に知らせ、私が日本で60年間してきたことに対する社会の評価を受けようとするものです」

 「パチンコ王」と呼ばれるのに実際、パチンコの実力はどの程度かという質問に、会長は「パチンコ人生50年だが、実際にしてみたのは10回にもならず、それもせいぜい1000円程度だ」とし、大笑いしていた。

 韓会長は「お金をたくさん儲けたのかはわからないが、お金の運用については落第点」とし「私のポケットにある全財産の10億円に、信用で5億円を借り、15億円分株式を買ったのだが、今4億円になってしまった」と打ち明けた。「それで息子らにはくれぐれも株式投資はするなと言っている」と話す。

東京=金玄基(キム・ヒョンギ)特派員 <luckyman@joongang.co.kr>

朝鮮日報 2006/03/28 18:19

韓国語で小説執筆した在日韓国人作家

 「私は裸一貫で日本に密航し、底辺の異邦人の生活を数十年してきました。在日韓国人社会の明暗を私のように幅広く体験した人はそう多くないでしょう。その体験をもとに在日が生きる姿を小説にして、母国の人々に見せたかったのです」

 1973年、食べていくために日本行の密航船に乗った24才の済州島の青年キム・ギルホは33年後の2006年、在日韓国人作家になった。在日韓国人作家は数多いが、キム・ギルホさんは‘韓国語だけで小説を書く’ただ一人の在日韓国人作家だ。彼が初めての小説集を発表した。『生野アリラン』(済州文化社発行)。

 生野は60万人の在日韓国人のうち最も多くの18万人が暮らす、大阪でも特に韓国人が多い地域。生野にある御幸通り商店街はコリアンマーケットと呼ばれる在日韓国人たちの生活基盤だ。キムさんも生野で在日韓国人が経営するパチンコ店の会計担当として働いている。彼が書いた小説のほとんどは、ここを舞台に繰り広げられる在日韓国人の話だ。

 キムさんは「今は外国人登録をしているが、若い頃密航したことに対して、韓国にも日本にも原罪意識を持っている」と打ち明ける。彼の小説はこの原罪意識から生まれる。故国を離れるしかなかった痛み、不法滞在外国人としての苦しい生活、在日韓国人社会の根深い世代間葛藤などが彼の小説には登場する。「死んだら自分の骨を故国に埋めてくれ」という老いた両親と、「日本で火葬しなければ」という息子の葛藤(『霊歌』)、済州島4・3蜂起事件(1948年4月3日に韓国単独選挙に反対して済州島民が起こした武装闘争)の時に夫を失い、日本へ逃れて生野で食料品店をしながら生きてきた老女の物語(『生野アリラン』)など、12編が載せられている。

 キムさんは日本で執筆活動をしながらも韓国の出版社から小説を発表した。作家になったのも、1987年に月刊現代文学に有名作家の金東里の推薦で短編『霊歌』を発表したのがきっかけだ。彼はハングルによる創作にこだわる理由について「韓国の物語を韓国語で表現したくて」と語る。韓国で暮らした期間よりも日本で暮らしている期間のほうが長くなったが、彼は今も韓国籍を持っているほどルーツ意識が強い。「私の娘も韓国の国籍と名前で日本の教師試験に合格、4月から大阪の中学校で英語教師として働く。韓国人のアイデンティティを持って日本の子供に教える私の娘を誇りに思う」と話す。

 そんなキムさんは最近、短編『生野アリラン』を日本語でも書いたという。東京の出版社が企画した在日韓国人文学全集に掲載するためだ。「評論家のキム・ユンシク教授が言った‘二重言語’に興味がある」という。二重言語とは、2つの言語を母国語のように駆使できる作家が、1つの作品を2か国語で創作することだ。1つの作品を書き、これを他の言語に翻訳するのとは区別されている。キムさんは「最終的には‘二重言語’を実現するのが作家としての私のもう1つの目標」と語る。

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