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他人のせいにする習慣

中央日報 2000.12.19 15:31

[フォーラム]中身のない「他人のせいにする外交」

 卵zはしていたが、年末らしく今年も例年と同じように嘆息と自嘲の話が社会をにぎわしている。

 憂うつな報道と専門家の寸評が、平穏な毎日を望んでいる市民を担保にしているのではないかと思うこともある。読まなくてもいいものや、知らなくてもいい汚らわしい情報は、庶民のストレスを増幅させるだけだ。

 問題が難解さを増すにつれ、専門家の提言はむなしく聞こえ、その大部分は「すべて他人のせい」という主張が時には不愉快に感じられる。

 庶民は政府のせいにして、学者は企業を責め立てる。与党は野党の悪口を言い、野党は執権党と大統領を責める。そしてマスコミは、こうした話をさらに大きくして茶の間に伝える。

 他人と私が共に犯した問題は、最初から「他人ではなく私のせい」という理解をもって出発しなければ解決できないのに、常に他人を責める道を選ぶのだ。

 国民の情緒に植え付けられた「他人のせい」にする習慣は、外交問題でも同じだ。

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の事情を分かりきってスタートさせたものの、必要以上に急いでいる自国の計算は問題視することもなく、ズルズルと遅らせる北朝鮮のせいにする。

 老斤里(ノグンリ)事件、梅香里(メヒャンリ)事件、在韓米軍の漢江(ハンガン)汚染、韓米駐屯軍地位協定(SOFA)改正など韓米関係においても、楓ハに浮黷ス問題を扱う姿勢も、やはり落ち着きが足りない。

 われわれの準備不足や論理欠乏を指摘する意見はなく、相手のごう慢さだけを指摘する出口のない扇動が、市民を怒らせる。

 教科書改正と在日韓国人の参政権は、日本を訪問する韓国高官や政治家たちの武勇談の種だ。

 まもなく解決されるかのように紹介された話が跡形もなく消えてしまうのは、すべて日本の偏狭さのせいだろうか。

 もしくは、相手が宿題を怠けているので、われわれは声を荒らげさえすればいいという安易なプライドも、理由の一つだろうか。

 ウワサ話を楽しみ、何かにつけて他人のせいにする習慣は、韓国社会に植え付けられた悲劇だ。その根を掘り返して、ただでさえ憂うつな国民を絶望させるつもりはない。

 しかし、世界でこれほど発展した祖国に希望を感じたことがあるならば、それにふさわしい市民になるよう努めるのは当然だ。

 行く道が遠いわれわれには、1年前の今ごろ21世紀が迫ってきていたが、日本はこれから21世紀を迎えようとしている(注:韓国では21世紀のスタートは2000年)。書店には国家と社会の未来を論ずる書籍が並んでいる。

 各種民官委員会が国家戦略を提示し、政治家と専門家の集会で立てられた政策広報が、日本の新世紀準備だ。

 しかし、日本人自らの問題点を魔ュ主題の書籍は一年中書店で見られ、国民の自省を促している。

 一時的に、同じような現象が流行のように韓国社会にも現れたが、果たして誰がこうした問題を深刻に悩んで切実な代案を提示したのかは、記憶にない。

 習慣的に他人のせいにする雰囲気と、他人の成功を喜べない社会では、優秀な人物や創意力のあるアイディアは期待しがたい。

 大統領に多くを頼っているわれわれの習性のためか、聞き慣れた「大統領が解決しなさい」という注文も、私の責任は回避して他人のせいにする条件反射的主張だという側面もある。

 とにかく、新年の暮らしを否定的に見る観測が大部分だ。経済的余力なしに、対北朝鮮政策や外交に注力するのを期待するのも無理だ。

 個人の暮らしと同様、国家運営もやはり事情が厳しい時は、あまり期待せず今置かれた立場を把握し、可狽ネことから模索する知恵が必要だ。

 しかし、生活が厳しかった時にしばしば経験したように、外を非難して実体のない他人のせいにする旧態依然の姿を繰り返してはならない。

 実利も測らずに火をつける反米運動や、停止した時間の中でもがく反日感情などは、ただでさえ厳しい生活をしている市民には何の助けにもならない。

 来年の今ごろは、自らに対する主題の把握から出発し、解放の時期を見過ごした米国に対する被害意識と、有効期間が過ぎてしまった日本に向けたプライドから、もう少し自由になったわれわれに会いたい。

東京で=キル・ジョンウ巡回特派員

 外国での経験から、冷静に韓国を分析して、の国民性や問題点を認識できるようになる場合があるのだろう。
ただ、まだまだこういう人が主流派になることはなく、時には売国奴として裁判にかけられるのが現状だ(記事1)。