中央日報 2002.10.01
22:15
【噴水台】広開土大王碑
古代史は謎ばかりだ。特に韓国古代史の基本的な謎は、文字で記録された史料がほとんどないという点だ。歴史書としては、金富軾(キム・ブシック)の『三国史記』が最も古い。
『三国史記』のうち最古の板本(誠庵古書博物館所蔵)が13世紀後半に作られたから、韓民族が漢字を使い始めた古朝鮮末以来1000年の歳月が、歴史記録の空白であることになる。
隣国と比較するのが恥ずかしいほどだ。中国では、今年7月にも紀元前3世紀の竹簡(竹を削って細長い札を作り、墨で文字を書けるようにしたもの)2万余点が、井戸跡から大量に出土した。
議論の余地はあるものの、日本も西暦720年に記されたという『日本書紀』を掲げ、「日本が200年間、韓半島南部を植民地にした」という任那日本府説を主張している。
その悔やまれる空白の中で、高くそびえる宝物が、広開土(クァンゲト)大王碑だ。
高句麗(コグリョ)王の気性を示すかのように、満州平野に高くそびえるこの碑石は、西暦414年に立てられ、2階建て住宅ほどの高さ(6.39メートル)で重さ37トンの自然石の4面に、全部で1775字の漢字が美しい隷書で刻まれている。
『三国史記』最古本より、少なくとも800年以上前の記録だ。当時の高句麗人の手で立てられ、刻まれたオリジナルである故、それ自体が歴史だ。文書による記録が絶対的に不足する韓国において、古代の金石文は重要であり、広開土大王碑はその中でも白眉だといえる。
問題は、広開土王碑が石灰を塗られ、一部が壊されたという点だ。一部からは「1900年前後の時期に、日本帝国時代のスパイが、任那日本府説を裏づけるため、わざと石灰を塗布した」という主張も出た。
しかし1984年、中国人学者らの精密調査の結果、19世紀末に中国人の拓本技術者が便宜上石灰を塗ったというのが、定説として固まりつつある。
それで碑石が壊される前に年作られた拓本は貴重だ。最近、1889年に作られた貴重な拓本が、韓国国学振興院で『韓国金石文集成』第1巻として発刊された。
漢学者で故人となった任昌淳(イム・チャンスン、号は青溟)先生が生涯をかけて収集した金石文の中でも、最も貴重な拓本だ。一般人には判読し難いほど薄れた碑文だが、猛々しい白黒の凸凹の中に、高句麗人の駆る馬のひづめの音をうずめたかのようだ。
呉炳祥(オ・ビョンサン)大衆文化チーム長
< obsang@joongang.co.kr >
|