韓国政府の主張

韓国政府が運営する Korea.net に掲載されている The Historical precedent for the "East Sea" の訳と、それに対する反論です。
* East Sea の歴史的な先例

今日国際的に使われている世界地図のほとんどが、Korea の East Sea を Sea of Japan と記している。従って早急な修正は正当なものだ。このために、"East Sea" という用語の歴史的な背景と、Korea の East Sea が過去に近隣諸国や西洋の国からどのように認識されていたかを調べなおす必要がある。また、"Sea of Japan" という名前を "East Sea" に戻す戦略を準備するために、どのように"East Sea" が20世紀に不当に "Sea of Japan" へ変えられたか見なおす必要がある。

* Korea の文献と古地図に現れる "East Sea" の名前

歴史的には、Korea は "East Sea" という用語を紀元前59年から使ってきた。実例は、広開土王碑 (411)、三国史記 (三王国の歴史, 1145)、三国遺事 (三王国の重要記事, 1284) を含む、数え切れないほどの記録の中に見つかる。さらに、新増東国與地勝覧 (増強された Korea の地理の調査の改訂版, 1530) 中の現存する「八道総図」も "East Sea" という用語を使っている。加えて、16世紀には東国地図 (Korea の地図) が「東抵大海」という用語を使っている。1740年代に製作された嶺南地図と、18世紀半ばに公式に作られた Korea の地図も、"East Sea" という名前を使っている。そういう訳で、"East Sea" が何世紀もの間使われてきたという証拠がたくさんある。
また、18世紀以降に作られた数え切れないほどの地図が絶えず "East Sea" と呼んでいる。20世紀初期の日本による韓国併合以前に出版され使用された多くの地理テキストが、"East Sea"、"Sea of Chosun"、"Sea of Korea" と呼んでいる。だが、20世紀初期までに既に "Sea of Japan" と呼ぶテキストがいくつかある。1910年以降に出版されたテキストは全て East Sea を "Sea of Japan" と呼んでいる。
* 支那、ロシア、日本の "East Sea" の使用

支那の史料によると、支那は唐王朝の時から "East Sea" のことを知っていた。だが、彼らはそれを単に「海」あるいは「大海」と呼んだ。Korean が698年に渤海王国を建国すると、支那人は East Sea を渤海 [訳注: 原文は Sea of Parhae] と呼び始めた。支那は、遼王朝 (947-1125)、宋王朝 (960-1279)、金王朝 (1122-1234)、元王朝 (1271-1368)、明王朝 (1368-1644)、清王朝 (1644-1912) の間 "East Sea" という用語を使用した。元と明の時代には、時折、支那人は East Sea を「鯨海」と呼んだ。大量に鯨がいたからだ。明と清の時代には、支那人は East Sea の北東部を "East Sea" と呼び、南部を "South Sea" と呼んだ。清朝時代の1884年頃、学者や官僚の中には、文書の中で "Sea of Japan" という用語を使うものもいた。しかし、1905年の露日条約[訳注: ポーツマス条約] が政府レベルで "Sea of Japan" を初めて記載されたものだ。
「坤與万国全図」は1602年北京で出版された地図だ。この地図は、イエズス会の司祭、マテオ・リッチがつけた世界地図を支那語に翻訳したもので、East Sea を "Sea of Japan" と呼んでいる。これは、"Sea of Japan" という用語を使用したことが知られている現存最古の支那(語)の地図である。しかし、この地図はそれ程重要ではない。なぜなら支那に住んでいた外国人によって作成された地図の翻訳だからだ。加えて、この地図の製作には、Korea よりも日本から得た情報が影響していると思われる。この地図は後の支那の地図に大した影響を与えなかった。その次に "Sea of Japan" という用語が支那の地図に現れるのは1875年頃だ。
ロシアの東アジアの地図は全て、ロシア人が初めて太平洋岸地方に辿りついた1639年以降に作成された。1687年に、Nic Witzen の "Noord en Oost Tartarye" は East Sea を "Oceanus Orientalis" と呼んでいる。N. Goman による1725年の地図は "Eastern Ocean" という用語を使い、1734年の地図では、I. Kirilov が East Sea を "east sea" を意味する "Vostochnoe" と呼んでいる。有名なペテルブルグ科学アカデミーが1745年に出版したアジア地図も、East Sea を "Koreiskoe Mope" すなわち "Sea of Korea" と呼んだ。ロシアで1745年から1791年にかけて出版された他の著名な地図は、"Sea of Korea" という用語を使っている。East Sea を探検したロシア人の Adam Johann von Krusenstern (1770-1846) は "Sea of Japan" と呼んだ。フランス人探検家ラ・ペルーズ伯爵 (La Perouse) (1741-1788) も1787年に East Sea を探検して同様に呼んでいる。しかし、ロシア人は1844年の最後に当局が出版した地図で East Sea を "Sea of Korea" と呼んだ。それ以降、ロシア海軍と多くの地図は、地名に言及する際に、ヨーロッパでの名前を用いるようになった。
"Sea of Japan" という用語は、18世紀以降日本で製作された多くの有名な地図で使われた。1870年までは、日本の地図でさえ East Sea を "Sea of Choson" と呼んでいる。次の地図は全て East Sea を "Sea of Choson" と呼んでいる。高橋景保の1810年の「新訂万国全図」、阿部喜任の1838年の「万国全図」、杉田玄端の1850年の「地学世宗図」、松田龍山の「地球万国全図」、そして1870年の「明治改訂万国與地分図」。
しかし、その後日本で出版された地図は East Sea を "Sea of Japan" と呼んでいる。これにより、日本政府は政策として、"Sea of Japan" という名前を使うことを命じたと推測できる。特に、地理的名称が、松田龍山の1854年の地図と、1871年の「万国全図」で変わっている。橋本澄月の1871年の「新刊輿地全図」は East Sea を "Sea of Japan" と呼んでいる。これにより、この頃変更がなされたと推測できる。なぜなら、"East Sea" という用語が、1871 年以降に出版されたどの日本の地図にも見つからないからだ。また、この頃 "Sea of Japan" という呼び方は、支那の地図にも現れ始める。
* 西洋の古地図中の "East Sea"

ポルトガルの Godhino de Eredia が 1615 年に作成した地図が、初めてヨーロッパで出版された、East Sea を "Mar Coria" (Sea of Korea) と呼んだ地図だ。さらに、East Sea は、イングランドで作られた Sir Robert Dudley の1647年の "Carta Particolare della Isola de Giapone" の中で、"Mare di Corai" (Sea of Korea) と呼ばれている。1744年と1752年の E. Bowen の世界地図中にあるアジア地図も、East Sea を "Sea of Korea" と呼んでいる。J.N. Delise が北東アジアを探検した後1750年に出版された北太平洋図も、East Sea を "Mer De Coree" と呼んでいる。さらに、"Sea of Korea" は1771 年のブリタニカ百科辞典の初版にも登場する。

すべての前述の地図は、East Sea が 17,18世紀に "Sea of Korea" として知られていたことを立証している。
しかし、East Sea が1797年の La Perouse の地図で "Sea of Japan" と呼ばれてから、その後ヨーロッパで製作された地図は高い頻度で "Sea of Japan" という用語を使い始めた。しかし、"Sea of Korea" と "Sea of Japan" の両方が、19世紀前半まで共存していた。現存する全ての古地図を再検証し終えたわけではないので、どのようにして "Sea of Japan" が19世紀後半に "Sea of Korea" を置き換えたのか解明するのは難しい。しかし、日本の軍事力が膨張し、日本に対する認識が国際社会で深まったから、Korea よりも日本に関する情報が早く手に入ったことを反映して、そのような置き換えがなされたと考えられる。
* 1929年国際水路機関によって公認された "Sea of Japan"

20世紀初頭、Korea が日本の植民地支配下にあった間、East Sea という名前は世界の地図から根絶された。East Sea という呼び方の根絶は、ある決議が国際水路機関の第一回の会議で承認された時に始まった。国際水路機関は、大洋と海の境界を確立し、安全な航海のために適当な地名をつける。日本の代表団はこの会議に出席したが、Korea の代表団はいなかった。この決議によると、East Sea は日本によって "Sea of Japan" として登録された。他の加盟国はどこも異議を申し立てなかった。その結果、1929年のモナコ会議は、以前に収集されたデータを基にした、大洋と海の境界 (The Limits of Oceans and Seas) という題名の Special Publication No.23 を出版し、この公布を国際的に承認された文書とする、という決定を採択した。その後、世界の地図作成者は、この公布を基に標準化された地名を使い、"East Sea" は世界地図から姿を消した。「大洋と海の境界」の新版は、1937、1952、1986年そして現在まで出版され、East Sea は依然 "Sea of Japan" のままである。
* 世界地図上に East Sea を取り戻す Korean の努力

歴史的に言えば、East Sea は長い間、Korea のみならず、支那、ロシア、日本といった近隣諸国や、ヨーロッパでも使われてきた。つまり、"East Sea" は、単に方角を指し示すというよりは、ヨーロッパにおける「北海」とまったく同様に確立された海の名前だ。さらに、"Sea of Japan" という用語を使いつづけるのを認めるのは、適切ではないだろう。例えば、多くの国に囲まれた地中海を考えてみてください。
1970年代始めから書かれた文書において、多くの市民や学者たちが、East Sea を "Sea of Japan" と呼ぶ不当さを指摘してきた。国連加盟直後、1992年の第六回国連地名標準化会議 (U.N. Conference on the Standardization of Geographical Names) の間、Korean 政府は、この間違った用法を正すことを要請した。その時は、国連は関係各国に相談するよう助言した。もちろん日本は、いかなるものであれ、この名前を変更することに反対した。その後、1994 年のニューヨーク、1996年のジェノバの国連地名専門家会議 (U.N. Group of Experts on Geographical Names) の会合で、Korea は "Sea of Japan" という名を使うことの不当さを発表した。1997年4月、Korea は、モナコで開催された第15回国際水路会議で、「大洋と海の境界」中の "Sea of Japan" を "East Sea" に変えるよう要請した。その結果、「大洋と海の境界」の1999年版で Korea の要請が反映されることが期待される。

さらに、Korean 政府は、世界中の有名な地図出版社、放送会社、新聞社、雑誌出版社と接触し、"Sea of Japan" の代わりに "East Sea" という名前を使うよう要請し続けている。合衆国の地図会社、Rand McNally は、最新の地図で "East Sea" と "Sea of Japan" の両方を使い始めた。

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